「ジョーカー2は第一作を賛美するような世界に対して冷や水を浴びせた傑作」という意見に賛同しかねる理由…何度も言います!私が怒ってるのは社会に対してでも擁護派否定派の映画ファンに対してでもなく、「この第二作の製作者」のプロ意識に対してですw
この週末だけでも、以下のようにさんざん、新作映画『ジョーカーフォリアドゥ』についての批判記事を上げている私ですが、
まず誤解しないでほしいのは、私は普段は温厚で寛容な映画ファンであり、こんなにしつこくある映画タイトルに怒っているのは実に珍しい、ということですw
それだけ、語りたいことが多い作品ということで、なるほど確かに、力のある映画だったとは思いますね、、、w
さて、『フォリアドゥ』ですが、
日本公開開始から三日ほどたち、noteにも様々な意見が上がってきていますね。
擁護する意見もたくさん読ませていただきました。
そして、そうした記事の中には「なるほど」と思ったものもありました。しかし今回に関しては、私の『ジョーカーフォリアドゥ』酷評の意見を揺るがす肯定論には、出会えていません。
特に、私が、「なるほど、、、そういう見方があるのか、と感じつつも、断じて私はその意見には賛成しかねる」と思っている擁護論があります。
それは、
「第二作は、社会現象ともなった第一作のファンに冷や水を浴びせるための、いわば鎮火のための劇薬だ。つまらなく作ってあるのも、観客の期待を裏切るような展開が続くのも、すべて、観客をあえて戸惑わせるための、監督の計算のうちなのだ」というもの。
※なんか、トッド・フィリップス監督自身も、そういうことを言っているようなのだが、、、
この意見をいう人は、たぶん、とても映画に対して、私より真面目で、優しい人たちと思います。「いやいや、きっとこの映画は、作り手がこういう意図を込めているに違いない」と、読み取ってあげる力があるわけですよね。それはそれで、映画というものに対して、真摯な向き合いと思います。だが、そのように「作り手の意図を読んであげる」優しい人たちがいることに甘えて、そんなら、私は、今回は作り手たちにめっちゃ厳しくいかせていただけますw
だいいち私は、結局のところで「映画という文化を経済的にもどう残していくか」も気にしてるリアリスト。そのような「作家の個性剥き出し」の映画というものが暴走することで、いかに世界中の映画館や、配給会社や、はては、今後控えていたはずのアメコミ系映画の企画の予算担当にビジネス的な打撃があるかを推測して真っ青になるリアリストなので、、、まさにその「作り手がわざと変な作りにした」ことに怒っとるわけです。
監督自身が、社会現象になりすぎた第一作への火消しの映画を作りたかった?本人もそんなことを言い出してる?本当?もしそれが本当ならミニシアター向きのアート映画として、そういう触れ込みで作ってくださいw!どんだけ今回、金銭的な迷惑をほうぼうにかけてんだよ、、
そもそも、
そもそもですよ?
「『ジョーカー2』は第一作に熱狂した人々に冷や水を浴びせる映画」なのだと、それが本当だとすると、
第一作の構成が、なんか、とてもおかしなことにならないですか?
私が第一作でいちばん気になっていたポイントを、ここで強調しておきます。主人公のアーサーは、もともとが妄想を伴う精神病と戦っていた人なのに、ゴッサム市の方針で精神患者へのケア予算が打ち切られたので、妄想を抑える薬を買えなくなった、、、というのが前半の展開でした(忘れた人は、ぜひ、もっかい、第一作を見てみて!)
主人公アーサーが、地下鉄で殺人をするのも(※しかも地下鉄シーンに関してはシングルマザーとの妄想と並行で「キーン」という謎の耳鳴り音と一緒に起きてる)、同僚を殺すのも、追ってきた警官がリンチされているのを見て喜ぶのも、そしてテレビ局に行くのも、
「妄想が辛い、薬が必要なのに…」と悩んでいるアーサーの姿とシンクロしてるので、「これらのひどい殺人は、現実なのか、アーサーが病気ゆえに見ている妄想かどうかわからない」というところがポイントでしたよね?
そして、私自身が第一作に出した結論は、
「おそらく、すべて妄想だろう。なぜなら、地下鉄の殺人で、弾の数が装填した数より多かったり、なぜか長距離で無我夢中で撃った弾がぜんぶ相手に当たったり、、、そもそも突然『テレビに出してあげる』と電話がかかってきて、出かけたらもう彼のための番組がスタンバイされてるなんのも、あまりにもリアリティがない、、、ぜんぶ変だ、、、ゆえにすべてはアーサーの妄想だったのだろう!誰も死んでない!アーサーにはまだ救いがある筈」でした。
それゆえ、第一作を見た私の感想は、
「弱者を切り捨てる社会はこういう凄まじいルサンチマンに満ちた妄想患者を産む。アーサーの殺人がどうやら妄想の中だったらしくてよかったね!でも、そう思った人は、精神患者のケアのあり方とか、弱者を追い詰めない社会のあり方とかをもっと考えようぜ!」ってことだと思ってた。。。
そういう映画でしたよね?
ちがうの?
ちがうかな、、、?
でも、あまりのことに、もう一度、この週末に第一作を見たけど、
やっぱり、第一作はそういう作りになっている映画としか、私には見えないぞ?
ていうか、、、
ていうかさあ、、、
トッド・フィリップス監督、あんた自身も、ぜったい、第一作は「すべてがアーサーの妄想とも解釈可能」っていうつもりで作ってたよねwww?
殺人事件のシーンがわざとらしくリアリティのない描写なのも、観客に「これはアーサーの妄想なのかもしれない?」と考えさせるために、狙ってましたよね?そうじゃないとしたら、弾丸数のおかしさとか、時計の針がいつも同じこととか、いろいろあったのはただのミス?、、、いやいやいやいや、ミスなわけがない、わざと仕組んでるよぜったいw!?
それがなんで、第二作では、「あれはぜんぶ、現実でしたよーん?」ってことになってるの?しかも、「第一作では、現実か妄想か曖昧?そんなことを言っている人は、第一作をちゃんと見てないんじゃないのお?」みたいに、私の解釈能力がおかしいみたいな顔をしてくるのよw
いつのまにか、ころっと態度が変わってないか?政治家の変わり身じゃないだからさ、、、自分の前作に、もっと責任持ってくれ!w
しかも、いつのまにか、
「第一作を見て、あれこれと余計な深読みをするジョーカー信者たちこそが、アーサーを追い詰めている悪なのだ、そんな彼らに冷や水を浴びせる第二作にしたのだ」みたいな顔をしているのw?
ちがう、ちがう、
ちがうちがうちがうw
第一作を、いろいろと深読みができる、曖昧な世界観の作りにしたのは、「あなた」なのですよ監督w!
それを見て、なるほど、一部の人は社会的な事件を現実で起こしてしまうような短絡的な反応をしたことはありました。それはたしかに、問題としてありましたね。でも、そんな反応を呼ぶ映画のつくりにしたのも、「あなた」なのですよ?
それが、なんで「いまどきの映画ファンはおそろしい!彼らこそが、アーサー以上の、真のジョーカーだ」みたいな空気になってるのw?
ちがうちがう!そんなこと誰も考えてないw「さんざん火をつけたあなたが、なんで、いきなりいい子みたいなポジションを取りに行ってるの?責任ある社会人としてそれどうなの?」ってことですよ監督!
いやさては、頭のいいあなたは、そんなことはわかってて、戦略としてやってるのかな?あえてそんな厚顔作戦に出て、「批評家から賞でも貰えればこったのもんだ」という作戦かな?
だとしたら、そうはさせんぞ!同業界の批評家からの賞なんぞよりも、あなたにふさわしいものがある。。。それは、ゴールデンラズベリー賞だ!今年のラジー賞がいまから実に楽しみだ!
そして、最後に、こう付け足しておきます↓
あんたが「政治上の都合で、精神病院を追い出された上に妄想を抑える薬も買えなくなり、追い詰められて闇堕ちした」という、それなりに同情できるバックグラウンドを与えたキャラクター、アーサー=ジョーカー。あなたがそういう肉付けをわざわざ与えたキャラクターの末路として、、、この続編のオチはあまりにもアーサーに失礼じゃないか!自分が創造したキャラクターとの関係ってあなたのなかでどーなってるんですか?
まあ、、、ハーレイに焚き付けられて弁護士のいうことを聞かなくなった展開は本人の自業自得ではあるんだが、もともと精神病に苦しんでた男にそこまでの自己責任論はちょいと冷たすぎるんじゃないかなあ。
というわけで、トッド・フィリップス監督、あなたが第一作について何らかのリアクションをしたいという気持ちがあるなら、作るべきなのは「弱者を追い詰めない社会ってどうありえるだろう」という真摯な映画、、、なんなら、「困っている人に、薬と定期診断だけは、しっかり届けられる社会でありたいね」っていうシンプルなテーマでも良い。だってそれで第一作の問題の大部分は、解決しちゃい、そもそもアーサーはジョーカーになる必要がなくなるんだもんw
ただし、世界中の映画館に経済的打撃を与えないよう、その折はぜひ、ミニシアター向けの範囲で制作配給してください!