『盗まれた街』(ジャック・フィニイ)は四回も映画化されているが結局は「映像化不可能なSFホラー文学」だと思ったハナシ
もともとは「ホラーや怖い話」好きだった少年時代から、SF好きな大人に移行したのが、私、ヤシロの読書経歴。
そういうわけで、SF好きを自認するようになってからも、
結局は「SFホラー」といわれるような、怖い系のSFが大好きです!
で、そんな中でも、小説で言うならば、
ジャック・フィニイの『盗まれた街』のことが、物凄く、好きなのです!
これこそ、名作!
一度読み始めたら、途中でやめられないほど、「この主人公たちはどうなっちゃうの?大丈夫なの?」とハラハラドキドキ、ページをめくってしまう!
それでいて、めちゃくちゃ、読後感ふくめて、
怖ーーーいんです!
まあ、あらすじだけを簡単に述べると、
あるアメリカの田舎町で、住人たちの間に、奇妙な騒ぎが起こり始める、、、「いつのまにか、私の夫が、見た目は夫のままなのに、違う人間に入れ替わっている?」「いつのまにか、私の両親が、見た目はそのままなのに、ぜったい、違う人間に入れ替わってる!」とパニックに陥る人たちが続出するのです。最初は、新しいタイプの精神病かと思っていた、主人公の若き開業医は、しかしだんだん、なるほど確かに、一人また一人と、街の住人が、「見た目はそのままなのに、中身が入れ替わっている?」という疑惑に囚われ始め、、、調査すると、この田舎町の危機どころか、地球全体の危機につながる、驚くべき事実を知ることになる、、、
というオハナシ。
類似の作品がこの後にたくさんできたせいで、地球侵略モノとしては古典に分類されていますが、
読書が好きな方、とくにハラハラドキドキなサスペンス娯楽小説が好きな方で、まだこれを読んでいない人がいたら、羨ましい!たしかに、アイデアはその後、さんざん模倣されてしまい古くなりましたが、ジャック・フィニイの語り口の上手さとテンポの良さで、ぐいぐいと引き込まれる大迫力のSFホラー文学に仕上がっているのです!
そして、「人間が、一人また一人と、見た目はそのままなのに『どこかが違う人』に入れ替わっていく」というホラーなアイデアは、映像作家のココロをくすぐるのか、
『盗まれた街』は、私の知っている限りでも四回、映画化されたことがあります(テレビドラマでの映像化や、アメリカ以外の国での非公式な「脚色」版を含めたら、もっともっとたくさんの回数、映像化されている小説なのでは、と推測しますが)。
↑で、その四作すべてをDVDで持っており、しばしば見比べ鑑賞をしているという私のマニアぶりも、ぜひここで自慢させていただいた上でw、話を続けますと、
私は四本のうちでは、とくに昔の二つ、
ドン・シーゲルが監督をした1956年のやつと↓
ドナルド・サザーランドが主演をつとめた、1978年版が好きで↓
その後に出てきたやつは、ガブリエル・アンウォーを出そうがニコール・キッドマンを出そうが、どうもどんどんパワーダウンしていくいっぽうな気がしてならないのですが、
原作好きとして意見を言わせてもらえば、この作品、平凡な街で平和に暮らしていただけの、ただのオッサンの周りで、どんどん「世界が何かに侵食されてる」というのが怖いのであって、そんな原作を、超絶美女な主演女優さんの美しさと多少のお色気シーンに頼った映像作品にしてしまっては原作の味わいとしては台無しなんですよねえ、、、w。
ガブリエル・アンウォーやニコール・キッドマンでもいいんだけど、この作品の主役は、オッサンでいいんですよ、オッサンで。
つまり、こーいう映画を撮るなら、いつだってドナルド・サザーランドが最高だっ!!
、、、と、言っておいた矢先に、何ですがw
結局のところ、このスリリングな原作小説をうまく映画に落とし込めた映像作家は、いないと言ってもいい。原作を読んだ人なら知ってることでしょうが、
4回の映画作品、すべて、オチが原作と違ってるんですよね。というか、作品によっては、そもそも「田舎町」という設定を、サンフランシスコの大都会に変えていたり、監督ごとにかなり原作設定をいじってしまってる。
どうしてそうなったかというと、なんのことはない、
ジャック・フィニイの原作小説は、映像化できそうに見えて、実は、映像化が不可能な作品なのだと思うw
というのは、、、
やはり、『ゲイルズバーグの春を愛す』とか『ふりだしに戻る』とか、もともとはホラーではなくて、「共感しやすい好人物を主人公に据えた、ロマンチックなファンタジー」を得意にしているジャック・フィニイの手腕、
『盗まれた街』も、実は主人公にたっぷりと感情移入させてから、その主人公をじわりじわりと心理的にいじめるというストーリーテリングなので、活字でじっくりと読む小説形式こそが、ピッタリなホラーなんですわw
実際、この小説の中で、いちばん「怖い!」と共感できるシーンは、
主人公が子供の時からよく通っていた図書館の、司書のおばさんが、もう老婆になってもまだ元気に同じ図書館で司書を続けている、、、といういいオハナシを伏線にはっておいて、後半に主人公が過去の新聞の切り抜きを調査するために図書館に行くと、その懐かしい司書のおばあさんも、結局、「見た目は以前の通りの姿なのに、目の奥に感情がないモノにすりかわってる」ことに気づくところ。
自分の家族や恋人がいつのまにか他人に入れ替わってるのも怖いけど、自分の子供時代の思い出の場所が、いつのまにか、「見た目はそのままに」悪意に満ちたナニモノかに乗っ取られていたショックというのは、、、読者のすごく深い感情を揺さぶる名シーンだけど、、、せいぜい2時間程度の映画作品の中で表現するのは不可能な「怖さ」でしょ?
そういう意味で、ジャック・フィニイは、よくも悪くも、やはり「読者をわかりやすく共感させる」アメリカ大衆文学の職人作家であって、
彼の作品は、やはり、活字でじっくり読んでこそ、引き込まれ、ハラハラドキドキが高まるように作られている。というわけで、読書が好きな方にはぜひぜひ、原作をオススメしたいのです!
そして、本作が結局は、原作小説を活字で読むのがイチバンな作品であると思うのは、もうひとつ理由があって、これだけ絶望的な地球侵略モノなのに、原作のラストは、
どこか、「あれ?人類、なんとかなるんじゃね?」と希望を持たせるような含みなのです。
この辺は、ホラーを書いても、どこかいつも心根が優しい作家さん、ジャック・フィニイの持ち味。
ところが、このラストをそのまま映画にするのは難しいのでしょう。映画化するとどーしても、鬱オチないしショッキングオチにされちゃうんですな、、、。ぜひ原作の、どこか希望の種をもらえるエンディングをもっと認知してもらいたい。
もちろん、あくまで原作と別物、という意味でなら、映画版の鬱オチも私はそれはそれで好きですけどね。ただし、鬱オチで〆るなら、やはり主演はドナルド・サザーランドで行くべきでしょう、ということで、
究極の結論、それは、やはり、ここに行き着く↓