私が自分の人生でずっと困ってきたこと【なんで文系と理解は相互に「入ってくんな」空気を出すのか?】
皆さん、こんにちは。noteで夢日記を連載しており、夢や幻想についての考察なども続々と記事にしているヤシロと申します。ところでこんなトンデモ話題をしていますが、なんと、本職はメーカーのエンジニアさん達の情シスを企画設計しているITエンジニアですw、エンジニアさん達の業務サポートITを開発するという、二重の意味でエンジニア文化の人です
そんな私が、ネットのいろいろな議論を見ていて、いつも感じている不満が、以下のイラストの、風潮↓
文学は理系に口出ししちゃいけないし、理系は文系に口出しできない!?そんな宗教的禁忌があってたまるか第一そうだとすると半生が文系で半生が理系の私は存在自体があり得ないとでもいうのかw
ただしそんな私の人生経験上、文系の人はどうも「理系のことに口出しすると怒られそうで怖い」と警戒しすぎてる気がするし、理系の人は「文系の人は話が定性的すぎて難しい」と理解どうしだけの人間関係に固まろうとする傾向があるように見えた。。。だがこれは文系と理系で高校生くらいからバスっとグループ分けをしてしまうことで、相互がまるで「異文化」のように交流がなくなってしまうという、単なる制度上の弊害のような気がしなくもない、、、
偉そうに聞こえちゃうかもですが、
こういう話のとき、私としては、
あの、まるで文系の親玉のように見られがちなニーチェですら、晩年にルーザロメを誘って、ウィーン大学の自然科学科に入学し直そうか検討していたことがあったことをどうかお忘れなく!
よく誤解されるが、ニーチェは「現代の啓蒙」や「現代の教養」が、実態は「タコツボ化」していることを強烈に批判していたのであって、「啓蒙そのもの」や「教養そのもの」がダメだと言ってるわけではない。
むしろ彼は、「大学の○○学部」などの
垣根も超えることを要求してくる「ウルトラ啓蒙主義者」かつ「ウルトラ教養主義者」とも取れる人である点、ぜひ、お忘れなく!
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