学力より知性を育てる教育
我が家は、学力よりも子どもの知性を育んでいきたいなと思って子育てしています。
夫はかつて受験指導をしていたことがあり。難関大学への進学実績を沢山出していることから、高校生時点から学力を上げる方法を熟知しているため、小学校から勉強をそこまでさせる必要がないと信じているそうなんです。むしろ無理矢理させるのは勉強嫌いになって逆効果かも?と。
そして私たち自身、そうした競争に辟易していることもあって、学校の成績はほとんど重視してきませんでした。
(現在息子は中1で、結局親の希望に反して本人が成績を上げることに楽しさを見出していますが、それはまた別の機会に記事にします。)
成績なんてどうでも良い。
だけれども…知性のある人にはなって欲しい!という私の意味のわからないエゴイスティックな願望があり。
家庭での教育に取り組んできました。(と言ってもお勉強ではないですが)
が、しかし…
知性とは何なのだろう?
と自分でもわからないままです。
IQ?
EQ?
非認知能力?
教養?
知識?
う〜ん。。。
私のイメージしているのはどんな時代にも柔軟に対応していける人間力。
みたいな。
みなさんはどんなイメージですか?
どうしたら育てられるのだろう??
私の家庭教育の実践の失敗と気づきについてまとめてみたいと思います。
子どものなぜ?に答えない方が良い?
子どものなぜ?に夫婦で答えていった結果、特に哲学的な範疇に関しては思索が深まっていかないように感じました。
夫婦ともに哲学書を読むので普段から夫婦で哲学などに関しても対話をするのですが。その延長で、息子に対してあれこれ教え過ぎてしまったように思います。
やはり哲学的な思索というものは、ある程度本人の悩みや苦しみの中から練られていくものであって、答えを与えるようなものではなかったのかもしれないと思います。
こんな風に育てたら子ども哲学者のようになるかと思いきや、超絶脳天気系の「悩んでも仕方ないじゃん」系に育ったので…人間って不思議です。本人はほとんど哲学には興味が無いのも疑問が解消され過ぎてしまったから?
そうした反省から、今は親も黙ることを学びました。子どもに考える余地を残す程度に答えます。「どうなんだろうね?」と放置することにより、一気に思索が深まった気がしています。質の良い発問こそが重要である!
結局のところ自分で思考することが大切なんだろうな、と思います。
コロナ以前に物理学の博士号を持つ知り合いの方と会食した時のこと、素晴らしい質問の数々を息子に投げかけてくださって。
子どもの目がイキイキしていくのがわかります。
私が教職で学んだ時も「いかに質の良い発問をするか?」が大切だと学びましたが、それを体感した出来事です。
大人に求められるのは、子どもの疑問に答えることではなく、思考のネタを提供することなのかもしれません。質の良い発問を提示することの難しさ!
しかし、子どものレベルに合わせた教育的意図を持った意味ある発問をするというのは、質問者側に高度な知識が求められます。網羅的にそして深く理解していないと的確な発問を投げかけるのは相当難しい。
私自身はほとんど無理だと思います。生活(料理や洗濯)、自然について、文学をほんの少し、教えられるかな?先生を見つけよう!
そこで最近私が思うのは、やはり先生の必要性です!
家庭の中だけでは子どもの疑問を成長させていくのは難しい気がするんです。せっかくキラリと光る疑問も、子どもの世界の稚拙なレベルで萎れていってしまう。
適切な水や日光を与えたら大輪の花を咲かせるかもしれないのに。
もったいないです。
もちろん手軽なのは学校の先生。どしどし先生に質問すれば良いけれど、現実の学校は……。
でも学校ではなくて良いと思うんです。難しく教科に当てはめるのではなくて。近所の大人がさりげなく対話する。その中から気づきを得て、思考していくというか…。
家の外に何人も先生を持つイメージ。
例えば梅干しの付け方を祖母に聞くのだって学びが得られるはずで。そのおばちゃんの何十年の知見からの発問は、きっと素晴らしいものなはず。余談
我が家の息子は最近「全知全能のカミサマがいるのになぜ戦争が起きるのか?」という疑問を持っています。それはある種の神に対する怒りのようですが。
そんなに考えているなら、今度牧師の先生と会食したときに質問してみたら?とアドバイスしました。その方は牧師なので当たり前ですが神学も哲学も非常に詳しい方なので、良い質問を投げかけてくれることでしょう。
そして他にも色々な人に聞いて考えてごらん。と言って、私は答えません。
私自身はクリスチャンなので持論はありますが、息子はノンクリスチャンなので大いに悩んで、神様を否定してみたら良いと思う。
そうした思索の果てに、彼なりの知性が宿るのでは無いか?と。
そう信じたいですが。実際の所これが良いのか悪いのか…。暗中模索です。
とにかく家の外に出て、色々な”先生”たちにお話を聞けるようにセッティングするしか親はできません。
良質な発問を浴びて成長して欲しいなと。
結局は、学校教育と家庭教育と地域教育という所謂「教育の三主体」が子どもの成長には必要というありきたりな話です。
三主体が渾然となって子どもに関わっていけば、きっと子どもたちは人間力を育める気がします。
息子には、知性のある人になって欲しい。
その中には、人に対する優しさも含まれていて。
やっぱり賢明な人は人と争わないと思うし。
でもでもやっぱり、じゃあ知性ってなんだ?という話しに戻ってしまう。
そして、じゃあ馬鹿ならダメなの?と言えばダメではないし。
子育てって本当に難しい。