【書評】マーク・フィッシャー最終講義『ポスト資本主義の欲望』(評者:木澤佐登志氏)
閉塞感に塗れている。
真綿で首を絞められるように、じわじわと状況は悪化していく。まるで、すべては初めから決定されていて、物事を変えることなど不可能であると宿命づけられているかのように。
七〇年代後半から始まったポストフォーディズムと呼ばれる労働再編によって、固定的で永続的な仕事は、ますます流動化していく不安定な非正規雇用に置き換えられた。労働者はフォーディズムの工場の束縛から解放されたが、今では砂漠に置き去りにされている。
なるほど、新自由主義の時代にあって、個人の選択肢は確かに増大したのかもしれない。さあ、あなたたちは自由です、この多様な選択肢の中から好きなものを選びなさい、というわけだ。しかし、どの選択肢も選ばないことを選ぶことはできないし、同様に、新しい選択肢を創り出すという選択肢を選ぶこともできない。こうして、個人は強制された選択肢という牢獄の中に閉じ込められる。
こうした無力感と絶望は時代精神の中にも反映されている。たとえば、「親ガチャ」なるスラングもそのひとつと見なすことができるだろう。子供は親を選べない、すべては家庭環境と遺伝子によって初めから決定されている。この決定論的な宿命観の中には、当然のことながら「社会」は存在しない。人生も階級も家庭環境と遺伝子によって固定されていて、生涯変わる可能性がありえないのなら、社会を変えることに意味などない。親ガチャはありえても、社会ガチャはありえないのだ。親ガチャが自分よりも境遇の良い家族を想定することで成り立つ概念であるとしたら、今よりも優れた社会を思い描くことができない状況の中で社会ガチャという概念が成り立たないとしても一向に不思議ではない。だが、ゆめゆめ忘れないようにしておこう。かつてサッチャーが「社会は存在しない」と宣言したように、不平等を発生させる構造的な問題を家族と個人の問題に不断に還元=矮小化することこそが、新自由主義のイデオロギーのひとつに他ならない、ということを。その意味では、親ガチャを唱える者たちもまた、新自由主義の規範を深く内面化することを強いられた犠牲者なのかもしれない。
現行の資本主義が唯一可能なシステムであり、それに代わるオルタナティヴなど存在しえない、という現代に蔓延する無力感を、マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」と名付けた。フィッシャーの全仕事は、この資本主義リアリズムの超克に向けられた、と言ってよい。だが、彼の仕事は道半ばで突如閉ざされた。二〇一七年の一月、フィッシャーは自宅でみずから命を絶ったのである。
本書『ポスト資本主義の欲望』は、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにて二〇一六年十一月七日から開始された連続講義の模様を収録している。当初の予定では、第十五講まで講義は続くはずだった。しかし、二〇一六年のクリスマス休暇の後、フィッシャーの講義が再開することはなかった。結果的に、「ポスト資本主義の欲望」講義は文字通りの意味で彼の最終講義になってしまった。それも悲劇的な形で。
そういう意味では、たとえ本書をフィッシャーの遺言として読んでしまいたくなる誘惑に駆られたとしても、それをすべて読み手の責に帰するのは酷というものだろう。たとえば、事実上の最後の講義となった第五講「リビドー的マルクス主義」において、フィッシャーはリオタール『リビドー経済』のニヒリスティックともいえる議論を引きながら、「資本主義の外部は存在しない」と幾度も念を押すように確認する。リオタール=フィッシャーは、ボードリヤールのように原始的な交換という<外部>を措定する身振りを退ける。資本主義に汚染されていない原始の領域はどこにも存在しない。「資本主義に汚染されずに機能していたであろうものにはアクセスできないのです。そしてこれが同じく意味するのは、革命的なものも外部には存在しないということです」。
この、いかにもペシミスティックに響く議論だけを読んで、最終的にフィッシャーもまた資本主義リアリズムに屈したのだと捉えるのは、しかし早計である。フィッシャーがここで考えようとしているのは、労働者=プロレタリアートに外部の位置を割り当てることは間違いである、ということだ。そして、ここにこそ労働者=プロレタリアートの欲望の問題が不可避的に絡んでくる。
フィッシャーは第一講「ポスト資本主義とは何か?」の中で、二〇一〇年のオキュパイ運動の参加者を嘲笑した保守派の政治家ルイーズ・メンシュを俎上に載せている。メンシュは、抗議者たちがデモの合間にスターバックスに並び、iPhoneから政治的内容をツイートしていることのあからさまな偽善をからかう。iPhoneを持っているような連中が、本当に反資本主義者になることなどできない、と。
フィッシャーは、このメンシュによる批判をしかし真剣に受け止めるべきだと言う。実際のところ、彼ら抗議者たちは、自分たちが欲しいと言っているものを本当には欲していない、としたら? ここから、フィッシャーは次のように問う。すなわち、「資本主義を超えた何かに対する欲望は、実際のところ存在するのか?」
そして、リオタールこそは、メンシュによる批判を、三〇年前の時点で一面において先取りしていたのだ。リオタールは指摘する。都市の労働者たちは、ソーセージパティを享受し、農村の旧世界的伝統が解体されることを享受し、資本主義によるニヒリスティックでマゾヒスティックな消尽を享楽していた、と。
資本に汚されていない向こう側は存在しない。しかし、この認識を直ちに「資本主義リアリズムに屈することを宿命論的に受け止めよ」といったリアリスト気取りのメッセージに変換することは誤りだ。そうではなく、フィッシャーが述べるように、資本に完全に浸った状態から始めなければならない、その上で、私たちが今いる場所から出て、変化を想像しなければならないのだ。
ここから、フィッシャーの議論は左派加速主義と交差しはじめる。すなわち、「資本のリビドー的で、技術的なインフラストラクチャーを保持しつつ、資本を超えていくことは可能だろうか?」という左派加速主義的な問題提起とフィッシャーの欲望についての問題提起がここにおいて出会うのである。
左派加速主義の議論を取り入れることのメリットは、資本主義の外部に「疎外されていない領域」を探し求める誘惑に陥る罠を回避できる点だ。存在しない資本主義の外部を探すのではなく、資本主義をまっすぐに通り抜けること。その先にこそ、ポスト資本主義が見えてくる。「それは今わたしたちがいる場所から始まります」
もっとも、フィッシャーは(加速主義にありがちな)素朴なテクノロジー楽観主義からも慎重に距離を置いているように見える。たとえば、「ラグジュアリーコミュニズム」を提唱するアーロン・バスターニのような論者は、資本主義下の欲望=贅沢とポスト資本主義下の欲望=贅沢の間の質的な断絶を検討しない。結果的に、彼らの議論は資本主義下のテクノロジーをひたすら加速させればそれで良い、といったシリコンバレーの起業家的な言説と大差のないものとなってしまう。
それに対して、フィッシャーは「iPhoneを持っているからといって、ポスト資本主義を望んではならない、というわけではないのです」と述べた後で、「ポスト資本主義の世界でiPhoneが欲しくなるとは思えないのですが……」と慎重に付け加える。ここにあるのは、やはりポスト資本主義における欲望についての問いである。資本主義的欲望にただ追随するのではなく、新たな集団的欲望=リビドーを生産することで、資本主義的欲望に対抗リビドーをぶつけること。この点に関して、六〇年代のカウンターカルチャーは、フィッシャーにとって集団的な対抗リビドーを醸成させるひとつの実験であったとして再評価の対象となるだろう。
フィッシャーはテクノロジーよりも、最後まで文化の潜在的な力を信じていたように見える。それは集団意識を生産し、新たな公共圏を創出=発明する試みにこそ賭けるという姿勢にも繋がってくる。
フィッシャーの死後、彼が不在の講義はグループによる読書会へと変わり、のちに「無から何かへ」という名のより公共の読書会となったという(もともと本書に収められた連続講義は、毎週フィッシャーが指定した一冊か二冊の本を俎上に載せ、学生たちと対話しながら思索を進めていくというポリフォニックな内容だった)。それは図らずも、フィッシャーが目指した未来の公共圏の先触れのようでもあった。
フィッシャーの仕事は道半ばで閉ざされた。しかし、彼の声は亡霊のように私たちに取り憑き、今も生き続けている。
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