偶然を編む(ヤマザキマリ『扉の向う側』)
雑誌連載時から、単行本になるのを楽しみにしていたエッセイがある。
ヤマザキマリさんの『扉の向う側』。
言わずとしれた『テルマエ・ロマエ』の作者で、フィレンツェ、リスボン、シカゴなどさまざまな都市で暮らした経験を持つコスモポリタン(いま、めったにこの言葉を聞かなくなった。でも、ヤマザキさんを表すのにぴったりな気がする)。そんな彼女が出会ってきた人々にまつわるエッセイだ。
明るくカラッとした語り口もヤマザキさんの作品を読む際の楽しみのひとつだけれど、この本はちょっと違う。やさしい、追憶の物語だ。宝箱からそっと大事に取り出し、「この人はね……」と、淡々と語りかけてくれる思い出話。
どのエッセイも大好きだけれど、雑誌掲載時に心をぎゅっと掴まれたのが、「バス停の女性」。フィレンツェに住む、10代後半だった頃のヤマザキさんがある日、バスを待っていると、白髪の女性にイギリス英語で声をかけられる。私の友人に似ているから、と。その女性とヤマザキさんはその後、バールでお茶をしながら言葉を交わすことになるのだが、なぜ白髪の英国女性がフィレンツェにいるのか。東洋人でもない彼女の友人とヤマザキさんがなぜ似ていたのか。ほんの少しの会話から彼女の人生の断片がぐぐっとフォーカスされる一瞬があり、ヤマザキさんの洞察力にハッとする。決して長くはない文字数の中に、濃密な時間と複雑な感情が練り込まれている。エッセイというより、短編小説に近い手触り。
長く親しむ家族や友人の話もあり、それらも同様に味わい深い。でも、私がヤマザキさんに一番魅力を感じるのは、「偶然を編む」人だということ。
「乗り物の中での出会い」という一編は、ヤマザキさんがイタリアで絵画を学ぶきっかけを作った、マルコという老人男性の話から始まる。その後も、ヤマザキさんは乗り物の中で、自身の人生を(良い意味で)思いもよらぬ場所へ導いた人々に出会う。偶然がもたらす、細い糸のような縁。出会いの糸は編み上げられて、最後は大きなタペストリーを鑑賞したような気持ちになる。
慣れ親しんだ街の片隅で。あるいは旅先で。偶然の糸は突如、目の前に現れる。ヤマザキさんは決して見逃さず、糸を握り、大切に宝箱にしまう。そしていつか、編み上げて見せてくれる。私はそれを待つだけだ。