「辛い」という感情の世界共通単位
生きていれば、誰しも「辛い」「しんどい」と思う瞬間や、時期がある。
その自身のSOSを素直に認め、労い、休む判断をすることは意外にも難しいことのように思う。
私自身は受け入れられず、お休みできなかった過去がある。
「辛い、もう休みたい」とは、心の奥底では感じていた。
しかしそう思った次の瞬間に「いやいや、自分はまだマシな状況にいる。自分が我儘なだけ」という言葉でかき消された。
私は何を基準に、まだマシだと判断していたのだろうか。
仕事にストレスを感じていても、「いじめられているわけでもないのに仕事が辛いと感じるのは、自分の忍耐力がないからだ」だとか、
夫婦関係で上手くいかない時に、「暴力を振るわれているわけではないから」などと、自分自身に言い訳することは世の中でありふれているように感じる。
私は自分のSOSを無視した結果、事態は悪化した。気付かないフリをし続けた結果、取り返しがつかなくなったのだ。
自分の感情を無視をした理由は、周囲に迷惑をかけたくないということと、単純に自分がギブアップであることを認めたくなかったからだと思う。
この2つの理由で受け入れられなかった。
しかしある日突然、私は急停止した。思考が停止し、一切動けなくなった。
そして、周囲への影響を考えていたはずなのに、かえっ影響を大きくしてしまったことに気が付いた。こまめにガス抜きをしていれば、ここまで影響が出なかったはずなのに。
自分の行いがまさに本末転倒であることの気が付いた瞬間だった。
「辛い」という感情に世界共通の単位はない
花を見て、綺麗と思う人と綺麗じゃないと思う人がいる。
どっちの感覚が良いとか悪いとかでは決してないはずだ。
価値観は人によって異なるからだ。生まれった性質、育った環境、経験値によって人間の感覚は大きく影響される。
「辛い」という感情も例外ではないのだ。
・「〇〇さんよりは、マシな状況にいる」
・「自分より辛い人は、世の中にたくさんいる」
自分より他者の方が辛いっていうのは、どうやって判断するのだろうか?
「辛い」という感情には世界共通の単位など存在しない。
「三センチ以上は辛くて、1センチ以下は我慢しましょう。」というガイドラインも存在しない。
感情や感覚は、目に見えないし計れないのだ。
計れないのなら、「辛さ」の度合いを人と共有することは不可能なのではないだろうか。人と比べること自体に意味をなしていないのだ。
人と比べて自分を判断する必要がないし、そもそも比べられない。第三者に比べてもらっても、それは第三者の感覚に過ぎない。
先述の花の例のように、綺麗と感じる感覚の度合いも計れないし、他者と共有できない。
空を眺めて「綺麗だね」という感情に、他者の共感を得られても、実際どれくらい空が綺麗かは計れない。本当の意味では、「綺麗」という感情は共感できていないように思う。
しばらくぶりに見た空は、それは綺麗に見えるだろうし、反対に毎日見てたら感動が薄れる。自分の中の「綺麗」にも日々、波があるのだから。他者と感覚を共有できなくても致し方ない。
他者と比べてることの無意味さを知ったら、後は自分のSOSを受け入れ、認めることだけができる。
自分が辛いと感じたらそれが本当に辛い時。他者と比べて休むことを後伸ばしにすると、状態が悪化し本末転倒になるのは目に見えている。
「自分で感じた感情や感覚こそが正解だ」
さて、今回はどれくらい休もうか?
堂々とお休みしましょう。
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