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母が色々と重たい

私は幼少期から母が大好きだった。

仕事と家庭を両立しながらの忙しい毎日でも、いつも心が安定した母を単純にすごい人だと感じていた。私の母は完璧な母親だと。

しかし私自身が思春期を過ぎたあたりから、様子がおかしくなっていった。

両親が不仲だと感じることが増え、挙句は母が病気になった。

病気の治療でストレスを抱えた母を助けたいと感じ、精神的なフォローを自分なりに率先して行った。

その後母の両親の高齢化で、定期的な通院のフォローが必要になり、そうしたことも自分なりにできる範囲で手伝った。

母は既に病気から回復していたが、不安と忙しさでいつも神経過敏になっており、会う度に私は母と衝突した。学業を優先していた為フォロー不足であった側面も否めない。

しかしあまりにも以前の母と違う様子を目の当たりにし、40代後半、ストレスの他に、中年独特な事情もあるのだろうと考えた。

私の勝手な判断ではあったが、妹と2人で母の心身フォローや祖父母のことも可能な限り手伝った。時たま両親の不仲の仲裁をすることも。

しかしその後も母の様子は悪化し続ける。

父との不仲、高齢化する両親への不安、現状を変えることができないフラストレーションが娘の私の目で見ても、随分とあからさまになっていった。

”親という立場の威厳”を保とうとする様子を1ミリも感じられなくなっていたのだ。

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「母は我儘を言う私の娘。」

そう思うことで私はなんとか自分を奮い立たせることができた。

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母の様子を目の当たりにて、40.50代は自分の人生を生きずらい環境にあるのかもしれないと理解した。

もちろん父も例外ではない。次々と変わる会社の風潮(テレワーク等)についていけずに、苦戦していた。そして酒の量が増えた。

40.50代は子育てがひと段落する時期ではあるが、親の介護や、自身も病気が身近になる年齢、さらには老後資金の準備、熟年夫婦特有の悩みが出てくることもあるかもしれない。

定職に付かない我が子を何時まで経っても心配しなければならない人もいそうだ。

「自分の人生をどのように生き、彩るか」なんて人生の舵を取っている場合ではなくなる。次々と沸き起こる周囲の心配事を片付けることで精一杯になるのだ。

私の母の場合、そうしたフラストレーションを娘である私と妹を、自分の娘だと誇示することで解消しようとしていたように感じる。

それ故に、成長し母の元から旅立とうとしてる娘たちの世話を、いつまででも焼きたがった。

我が子が自立しても、結婚しても、出産しても、娘が娘であることは変わりない。もちろん子が自立したからと言って、親への尊敬の念が消えることもない。

しかし母は"自分が世話を焼いてあげること"だけに固執し、居住地でも物理的な距離をとることを嫌がった。

不安だったのかもしれない。

自分が必要でなくなると思い込んでいる様子だった。

そう、まだまだ小・中学生だった頃の娘たちでいることを望んでいたようだった。母の目の届く範囲で、全ての生活を賄っていたあの頃のように。

私は娘たちの母親をしている。まだまだ親の役目があるのだと考え、そして頻繁に「私は自分の人生をいきていない」と口にした。

自分の人生を生きられないのであれば、代わりに永遠に娘たちの母親でいることで心を満たそうとしたのかもしれない。

そういった一連の出来事で、私は「母を重たい」と感じることになった。

この時期、20歳前後。

外へ飛び立つことへの希望と不安に満ちているのに、身体がとても重いのだ。母親が重たい。飛び立てない。

誰もが自分で選択して生きている事実

歳を重ねても、自分以外の世話を焼かなければならない状況でも、「自分が自分の人生を生きている」という事実は死ぬまで変わることはない。

自分が望み、楽しい選択をすることだけが、自分の人生を生きているというわけでは決してない。

母は両親の介護を自分でするという選択も、夫と離婚をしないという決断も自分で下した。

ネガティブな側面もあるかもしれないが、もちろんポジティブな側面もある。

私の目から見ても祖父母は母に感謝していたし、時折親子3人で楽しむ様子も伺えた。そして実の母の最期を自宅で看取れたことに母は喜びを感じていたはずだ。

父との関係のことも、この先まだどうなるか分からない。長ければ後30年近く寿命があるのだから、良いようにも悪いようにも母自身の言動で変えていくことが可能だと思う。十分すぎる時間がある。

母は、母が主役の人生を十分に生きている。今も昔も。

私自身がそう自覚したことで、母の重たさがすっと消えた。

母に軽くなって欲しいとばかり願っていた私だが、実際は自分の内面で答えを見つけることができた。

よって過去も今現在も、母の言動は変わらない。それでも重たく感じないのだから結局は、やはり自分次第なのだ。

私は母を重たく感じない人生を選択し、生きている。

親が可哀そう

定年退職したり、子供が独立したり、親を看取ったり.........

何か1つのことを成し遂げると、自分の役目を果たした達成感を共に、虚無感が人の心を襲うのかもしれない。

渦中にいる時は、自分の人生ではなく親や子供の世話に振り回される人生。はたまた会社に振り回される人生などと揶揄し、「自分の人生を生きていない」などど思い込む。

しかし終わった途端に寂しさや、自分がもう社会や家族から必要とされていないという思い込みが襲う。

人生はいつでも思い込みに振り回されているのだ。

両親のそんな様子をみて、私自身は「可哀そう」と感じた。

自分がいつまででも子供でいてあげなければならないと思い込んだ。

しかしそういった思い込みは、自分の子供が生まれた瞬間に消え失せた。

親もひとりの人間

親も完璧ではない、ひとりの人間なのだ。

自分の親には、「いつも手本であって欲しい」「尊敬できる対象であって欲しい」という想いが、私の心の奥底にあったことに気が付いた。

それ故に、自分の成長と共に気が付く親の人間的な一面や弱さを見て、私は動揺したのかもしれない。そして「重い、可哀そう」と感じた。

しかし出産後の私は何も変わっていなかった。

産前の私と産後の私は、同じ人間だった。出産を境に急激に人間的に成熟したわけではない。

自分も親なのに完璧ではないことに気が付き、両親への「こうあって欲しい」という期待や、そうでなかった時の絶望感が和らいでいった。

親なのだから、子供の前ではいつでも理性的であって欲しいと願うのは、娘という立場の乱用に過ぎなかった。

成人したのだから、娘ではあるが子供でない。

自分が親になって初めて、親もひとりの人間なのだと理解することができ、親の理性的ではない言動も受け入れられるようになった。

幸せが伝染するのは当たり前の事実

我が子は、私が笑うと「キャッキャッ」と喜ぶ。

子供の幸せを願うということは、自分自身の幸せをも願うことなのだと実感した。

私が両親に対し、「重たい 、可哀そう」という感情を抱くことは大変失礼であると同時に、私自身が幸せではないという事実を作り上げているだけに過ぎなかった。

私は両親を「重たい、可哀そう」と思い込む人生ではなく、我が子と共に幸せに過ごす人生の主役でいることを選択した。

誰もが家族の幸せを願っている

親が子の幸せを願うように、子も親の幸せを願っている。

そして幸せは伝染する。

私は母が自分の人生を生きているのだと理解することで、私も自分の人生を生きようと改めて思うことができた。

母にしか、母の人生は生きられないのだから。

私の人生も私にしか生きられないのだ。

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私は両親不仲の実家に居心地が悪く感じ、息子と2人で家を出て再出発した。そう、私は現在シングルマザーだ。

そして息子と2人で大きな川がある素敵な街に住んでいる。

愛で溢れ、充実した毎日だ。

その家に最近母が転がり込んきた。

夫を放ったらかしにして、孫の世話を焼くことが母の人生だそうだ。(笑)
それでこの先どんな結末になろうが、もちろんそれも母の人生なのだ。

それでも今、母は重たくない。









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