私の困難に誰かが向き合ってくれたから
上記は昨日の短歌。「感情の波」というからには上下するものなのだということは嫌というほどわかっているのに、それがうっかり高くなりすぎたり、逆に低くなりすぎたりしてしまった時には、わかっているはずのこともわからなくなっていることが多い。いや、わかっているつもりでわかっていないのかもしれない。それが明らかになるだけかもしれない。
感情の波の上下による混乱は、何度も自分の中で起きていることなのに、それの鎮め方を記憶に残せていないのだろう。いつもやり方を忘れていて、仕方がないから場当たり的に思うところを発散して、しばらくすると気が済んで波は鎮まる。
「ああ、今、感情の波が高ぶっているな」などと、状況をそのまま理解しようとするだけでも、高ぶりは抑えられる。感情の波が高ぶっている、という状態が認められたら、あとは「そうか」と思っているだけでもいい。徐々に波は落ち着いてくる。これだけのことが、波の高低が極限値辺りまで近づいてしまうと、わからなくなるのだ。
昨日もそうだった。とっ散らかった頭が状況の理解よりも、不快な状態からの離脱を求めていた。冷静になれば不快さは消えるのだが、それがわからない。自分ではどうにもできないのだと思い込み、誰かを頼ろうとした。
とある単語を検索すると、検索結果よりも先に出てくる文言やリンクがある。そのリンクは電話やチャットなどの相談窓口につながっている。しかし、その窓口までつながることはほぼないと言ってもいいだろう。そこに伸ばされる手の数が多過ぎる。
なのに、昨日の私は相当に運が良かったのだろう。つながらないならばせめて今の気持ちを書き残すくらいはしてもいいだろうと、まとまらない感情をチャット画面に打ち続けていたら、担当の方につながったのだ。
私がそれまでに書いたことを読んだ上で、その方が質問や言葉を返してくださった。何往復か言葉を交わしただけで、私のその時の思いが全て伝わったとは思えないし、相手の方の思いを私がきちんと受け止められたかは自信がない。それでもその時は、自分以外の誰かが自分の困難に向き合ってくれたことが、非常に有り難く感じられた。一人で暴れて自分で自分に絡ませてぐちゃぐちゃにしてしまった糸の、ほどけやすそうな場所を指さしてもらえたように思えた。
先に書いたように、自分の感情の波が大きく上下したとしても、その状況を自分でよく観察することで、大抵の場合はなだらかに鎮めていくことができる。でもそのやり方は、混乱した頭ではなかなか思い出せない。そんな時には、外部からの声掛けが強い助けになるのだ。
とはいえ、前述したように、相談窓口にはほぼつながらない。つながらないという現実に、余計に途方に暮れてしまうことにもなりかねない。これをどうすれば解消できるのか、私には良い解決方法が思いつかない。相談できる人が増えればいいと言うのは簡単だが、極限にまで落ちているであろう人の気持ちを、安全な位置にまで引き上げることは容易ではない。誰にでもできることではない。
何も知らない他人と関わるのだから、傷ついてしまうことも起こるだろう。それでも、きっと今も、その人にしかできない懸命の声掛けを行っている方々に、尊敬の念を示す。私に返せる恩があるとすれば、その人の存在を覚えていることだろう。自分の感情の制御ができなくなって誰かを頼ろうとした時に、その人の存在を思い出すことだろう。つながりはしなくても、見ず知らずの誰かの助けになろうとしている人がいる。私ではないけれど、私に似ているかもしれない困難を抱えた誰かの助けになっている。誰かのつらさがほんの少しでも減るならば、それは私のいる世界からつらさがほんの少し減ったということだ。私も、間接的に救われている。