#6 カプースチン作品の変遷②
前回に引き続き、カプースチン作品の変遷を辿っていきます🏃♀️
演奏活動から退いた後のカプースチン作品がどう変化していったかについてです。
演奏活動からの引退後
(1980-2020 年)
○1980年代
演奏活動から退いた 1980 年からは、ピアノ独奏曲の作曲が増えてきます。
この時期に書かれた作品には《ピアノソナタ第 1 番 ソナタ・ファンタジー Sonata Fantasia》Op.39(1984)、 《8 つの演奏会用エチュード Eight Concert Etudes》Op.40、《ピアノソナタ第 2 番》Op.54 (1989)などの、今日よく知られている曲たちが作曲されます。
また、ピアノ以外で初めての協奏曲、《サクソフォーン協奏曲》Op.50 (1987)もこの時期に作曲されます。1980 年代にはピアノ協奏曲も 4 曲作曲され、協奏曲は合計5曲も作曲されました。
○1990年代
カプースチンの作風において大きく変化するのは現代音楽志向の高まった 1990 年代以降で、ビッグバンドや映画音楽から影響を受けていた作曲初期の大衆性のある音楽から一転し、1990年代以降徐々に現代音楽的な複雑なものへと変わっていきます。
1990年代には 12 音技法や無調音楽への実験的な試みが多く成され、曖昧な調性や目まぐるしく行われる転調から、《ピアノソナタ第 3 番》Op.55(1990)以降の作品には調号が用いられなくなります。(元々、調号が用いられていた時代からカプースチンの曲には臨時記号が多く、中心調はあるものの…状態でしたが。)
この時期には規模の大きい室内楽作品、オーケストラ作品が多く書かれた他、器楽のソナタが 11 曲、協奏曲が5曲書かれるなど多作の時期でした。
弦楽器の作品が多く書かれたことも特徴的であり、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのソナタやコントラバス、 チェロの協奏曲が作曲されました。カプースチンのチェロ作品、めちゃくちゃいいんですよ、、、ぜひ聴いてほしいです。
1991~1993 年までの実験的な音楽を試みた時期を経て、ジャズのハーモニーやリズムの要素はそれまでの分離独立したものではなくなり、カプースチン独自の語法として、作中に複雑に形成されるようになります。
○2000年代
晩年に当たる 2000年代の作品には、英語によるタイトルが付けられるようになります。
このことについてカプースチンは、「エチュードやスケルツォなどの抽象的で退屈なタイトルを付けることが嫌になり、表現力のあるタイトルを付けたくなった」のだと述べています(川上 2018, 101)。曲のタイトルを考えるのにカプースチンの息子さんが大活躍したこともあるそうです😳
また、カプースチンはこれまでに意図して非オリジナルのテーマを用いて作曲することはなかったのですが、晩年になるとジャズスタンダード曲のパラフレーズを作曲するようになりました。
カプースチンのパラフレーズの作品には、《ドゥヴォイリンの主題によるパラフレーズ Paraphrase on a Theme by Paul Dvoyrin》Op.108(2003)、《アリー・バローゾのブラジルの水彩画によるパラフレーズ Paraphrase on Ary Barroso’s Aquarela do Brasil》Op.118(2003)、《ケニー・ドーハムのブルー・ボッサによるパラフレーズ Paraphrase on Kenny Dorham’s Blue Bossa》Op.123(2004)、《ディジー・ガレスピーのマンテカによるパラフレーズ Paraphrase on Dizzy Gillespie’s Manteca》Op.129(2006)などがあります。
カプースチンの後期でやはり印象的なのは12音技法が使われるようになったことですね。
カプースチンは雑誌のインタビューで、前衛音楽に憧れはしたものの、結局は作曲者本人も理解することができないからそういった音楽を作ってはいけないと思った、と発言しています。後期の作品は難解な作品も多いですが、前衛音楽とは別のベクトルをカプースチンは目指していた、ということも一つ頭に入れておくといいかもしれません。
後期の作品はなかなか弾く機会がないためまだ未開発の域なので、これからどんどんチャレンジしていこうと思います💪
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