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COLD BREW 35

 おはよう、の声を耳元で聴いた。
 枕の上にその顔が微笑んでいた。
 羽毛布団の中からずるずると毛布が抜かれて、それを身体に巻きつけて、史華がベッドから降りた。その背中に、ようやくおはよう、と返せた。度胸を座えた女がそうするのは、羞恥ではなく単に朝冷えのためだ。
 まだ身体が自分のものではない。
 頼りなく震える足に叱咤しながら、寝床から背を引き剝がした。下着をつけてトレーニングウェアを着た。
 リビングに出ると史華がハンドドリップに挑んでいた。
 エアコンがまだ効いておらず寒々とした空気があった。
 彼女は首だけを出して、毛布を被ったままだ。蓑虫みのむしのようなその毛布の裾から、すらりとしたふくらはぎが伸びていた。
「いい香りだ。腕をあげたな」
「お世辞はいいわ。冷蔵庫に、ケーキを買ってきているの。柿のケーキよ、ちょっと酸味もあるから、朝食にはさっぱりしていいかもしれない」
「ありがとう」
「そう、今度は素直。及第点ね」
 カップで手を温めながら珈琲を交わした。

 元日二日は曇天だった。
 気温は更に冷えていた。
 彼女は、リビングのソファに畳んであった、冬の装いを身に着けた。
 厚手の黒のパンツルックに大振りの深翠のセーター、袖を捲って手首の先も見えていた。防寒着として、紺のピーコートがソファの背に掛かっていた。
 身支度を済ませてキッチンに立ち、てきぱきと動き始めた。
「お雑煮くらいはつくっておくね」
 まな板の上でとんとんと音がする。
 慣れた手付きで安心できる。お母さんの躾が伺える。
 冷蔵庫を開けて、手慣れた様子で食材を取り出していく。
「マスター、並べ方がお店の冷蔵庫とそっくり。どこに何が置いてあるか、すぐにわかるわ」
「そういうものか?」
「キャラがでている。和風のものが少ない。飾りかまぼこもないなんて、元旦の冷蔵庫に思えないわ」
 向かいあって食卓についた。
 お雑煮の入る漆器と、祝い箸がお盆にセットして並べられた。僕の持ち物を全て把握しているらしい。昨年から行方不明のUSBの在りかも判るかもしれない。
 お雑煮の後でケーキも頂いた。
 珈琲はハンドドリップをしてあげれた。
「初詣だけは一緒に行こうよ」
「ああ」
「志望校に受かることだけをお祈りしてね。自分のはまた別の日にいって。今日だけはわたしのお願いが優先だからね」
「ああ、お年玉をあげないとね」
 くすりと笑って、下腹を抑えて。
「もう、昨日貰ったわ」と返した。

 昨晩のことだ。
「わたしにできること、ある」
 泣き止んだ史華が訊いてきた。
「お風呂を沸かして欲しい、43℃設定で。身体を温めたい」
 ベッドから飛びだして、健康的な背中を見せながら部屋をでた。そうして温度設定をして前も隠さずに戻ってきて、ああ寒かったと呟いた。
「見ないでよ、馬鹿っ」
「すまない」
「いえ違うな、見て欲しかったのよ。言いたかっただけ」
 暫くして電子音が流れてきたので、生まれたての仔馬のように震えながら浴室に向かった。かかり湯もしないでそのまま熱いお湯に肩までつかった。 
 気配がして、すりガラスの向こうに人影が立った。
「さ、最後のいっちまぁ~い」
 片足立ちでショーツを脱ぎさる姿が透けて見えた。
 励まそうとしているのか、殊更に元気な声だ。
 押しとどめる気力も湧かずにそのまま彼女は入ってきて、膝立ちになってかかり湯をした。前かがみになると重そうな乳房が揺れた。
「ちょっとごめんなさいね」
 お湯に入ってきた。入浴剤で白濁したお湯にゆっくりと浸かったがそれでもお湯が盛大に溢れた。愛嬌のある瞳をくるくるさせていた。
「おい」
「気にしないの、初めてじゃないんでしょ」
 温まってくると中腰になった。深い谷間が見えている。
「見ててね、わたしのってお湯に浮かぶのよ」
 そうして指先で僕のを触ってくる。それが何なのかを知っていて、どうしたらいいのかも分っている手業だった。

 汗ばんだ身体が並んでいる。
 吐息にも湿っぽさが増した。
 それでようやく毛布に包まり、羽毛布団をかけた。
「ねえ」と女の声がする。
「貴方の幸せってなに?」
「おやすみをお互いに言えること、おはようを交わし合えること。ありがとうが素直に言えること」
「難しいね」
「ああ、独り暮らしではまず難しい」
 忍び笑いまで絡まっていた。
「気にしないでね、明日の朝からはいつも通り、わたしはしてあげたいことはしてあげたから。明日からは受験生よ」
 返答に窮した。己のしでかしたことを悟ったからだ。
「気にしないの、今日は大丈夫の日。危ないのは再来週だから」
 平然とそんなことを口にする。
「今更、彼女づらなんてしないから。でも今日だけは何があったのかを真剣に話してくれる。大丈夫。わたしの脳は受験前だから、要らない記憶は真っさきに消去してしまえるから」
 そして昨年の秋、祐華との再会から、昨日までのことを話した。
 最初は並んで聴いていたが、終盤になって背を向けて丸まって聴いていた。抑えきれない激情を堪えているようだった。
 僕は、涙袋のある史華の双眸を思い出していた。

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