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繭玉祀り 1

 私は存在していたのかしら。
 記憶さえ曖昧な乳白色の闇に包まれている。
 時間の流れでさえ、白濁した思いで思いでの谷底に埋もれて、その断片だけが取り残されている。
 今思えば本当に奇妙な世界に浮かんでいる
 濃厚なスープのなかで群れている魚影のように、誰もが顔を持たない。不定形でぶよぶよの姿であり、その声も音声としては届かない。私の心の声だけが耳にできる。
 幸いなことに。
 他の人が語るものは、文字として白霧に浮かんでくる。
 私の周囲にある影は、それぞれに個性があって。色には濃淡がある。その色が濃ゆければ濃ゆいほど、私に向けられる思いに篤いものがあるようだ。
「相貌失認の疑いがありますね」
 その灰色のぷよぷよが云う、いや云ったのが字幕に出ている。
「それはどんな障害なんですか」
 字幕では感情までは翻訳されていないので、実感がこもっていないけど。この真っ黒は真剣に問うているのが判る。
「認識障害のひとつですが、総人口の2%の割合で存在します。有名なのはブラッドピットがそうですね。相手の顔を区別できないので、上流社会で孤立して悩んでいました」
 そこでぷよぷよが、きぃと耳障りな音を立てて、字幕の角度が変わった。
「この障害のなかでも奥様はかなりの重症と考えます。人間としての存在すら認知できていないのが、眼の焦点速度に現れています。この症状はいつからでしょうか?」
「昨年の・・・あの、事故で意識不明の状態が続きまして。怪我の方は順調に恢復したのですが。意識喪失の状態でした。先週に目を覚ましてくれましたが、それ以来ずっとこんな状態です」
「余程の事故だったんでしょうね。その衝撃が記憶の錯綜を呼んでいると考えられます」
「何か投薬とか、しゅ、手術というのは」
 切迫しているとは思うけど。
 残念だけど、その苦渋は字幕に乗らない。
「心因的なものですからね。手っ取り早く済むものではないのです。不眠症の併発であれば精神安定剤でも・・でもちょっと難しいですが」
「それは何です」
「転地療法でしょうか・・お仕事とかお住まいとか、経済的なハードルが高いとは思います・・・」
 その灰色は半ば諦めたように・・・で結んだ。

 背後から押されているのが判る。
 体中に、疼痛が駆け巡っている。
 手というものが貌というものを掻いているらしい。
 それを優しく何か力の強いものが振り払っている。
「顔に傷がついちゃうよ。やっと回復したのに」
 苛立ちがその字幕に乗っていない。
 なのにそれを感じている。
 何か温かいものに包まれて。
 冷たい水滴が、触れている。
 私が、私自身を取り戻して。
 今であれば理解できる。
 夫というそのひとが、私の頬を両手で包んで。更に涙で濡れた頬をこすりつけていたということを。
 

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