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遠く、幻のまち
このタイトルで長編を書いた。
まだ三十路前で、東京の出版社に持ち込みに行ったことがある。
全く恥ずかしながらの若気の至りだと思う。
ああ、今も進歩していないな。
その小説の舞台は学生時代を過ごした神戸にしていた。
当時はGoogle先生もEarth教授も存在しない。朧げな記憶と地図とガイドブックを頼りに書いた。
そして郷愁に駆られて何度も神戸に行き、学生時代の友人たちと再会しては無為な日々を過ごした。
そうそう別れた女房が恋人だった頃も、何度か訪れた。
そのときに求めていたのが靴だった。
神戸は靴で有名な場所だったし、職人さんが多く住んでいた。それが阪神淡路大震災を原因とする大火で個人の工房が焼失してしまった。命を喪った方も多かったろう。
大震災後にも何度か訪問したが、当時の面影が消え失せた街がそこにあった。
私が魅力を感じていた、どこか胡散臭い匂いが消えて端正な都市になっていた。
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購入したのは神戸市、元町の高架下の靴屋だった。
そこは都会の隅の蟻地獄のような吸引力があった。
高架下ほどかつての神戸の胡散臭さを体現した通りはないだろう。
高級なブランデーを扱う酒屋から、補導されるべき刃渡りのナイフを売っている店がある。ここの材料はなんだと疑うほど格安な台湾点心のお店がある。
妙な下町の活気に溢れた通りだったが、今はシャッター街区だという。
あれは異世界に陥った夢だったのかもしれない。
その街でこのイタリア製とかいう触れ込みの靴を、気に入って購入した。
「これは仕立てがいいから、きちんと手入れをすれば還暦まで保つで」というオカンの言葉に「またまたぁ、で、ナンボになんの?」と迫りながらの応酬を繰り返した。
その還暦も目前に迫っている。
会社員時代には大事な契約の時は愛用していた。
そのために靴底も数回は張り替えた。
もう仕事で履くこともないので、ここまで維持できているのだろうが。
離島で虫の音を聞きながら、初秋の夕暮れに磨いている。