風花の舞姫 小太刀 7
老剣士が間合いが詰めてくる。
相対しているのは、鬼か魍魎に相違ない。
着流しの袴で足捌きを巧みに隠している。
腰の長刀をするりと抜き、脇構えをとる。
老剣士の得物の間合いが読めなくなった。
路地を縫うように後ろに下り、懐の白鞘を上段に構える。鯉口はもう切ってある。刀身に鞘はただ被さっているのに過ぎない。こちらは小太刀である。長刀とは間合いの深さが違う。初撃のその一瞬まで、抜き身の刃渡りを見られたくはない。
鞘を中空に残したまま、大気をも両断する疾さで白刃を撃ち込む。投げ抜きという技で鞘は背後に飛ばされる。しかもこの太刀には全体重を乗せた重みがある。
老剣士の脳天が消失する。が、手応えはない。
逆に目前に迫る、折り敷きの切っ先。
老剣士は右膝を折り、この懐の真芯に既に飛び込んでいる。そして膝を地面に敷きながら、剣を垂直に垂直に立てて凶刃の鋒が僕の喉に迫ってくる。
渾身の一撃で前に加重がかかっている。
そこに下方からの突き上げ。
避けられぬ。
老剣士が、脇を締めて抱き抱えている剣尖に対し、身を抉るようにいなす。撃ち下ろした斬撃の柄で、それを際どく斜めに払う。握りの柄頭で的中できなければ指を失う覚悟でもある。
彼はそのまま右からの袈裟がけを打ってくる。その余裕が敵にはある。体を躱す。真剣では刃で打ち合うようなことはない。刀を折る技がある。刀身を曲げる技もある。背を丸め背後にさらに飛ぶ。
「ほう、主も死線を超えておるか」
老剣士が舌なめずりをしている。
「儂はな、天誅組の死に損ないよ」
下段から再びじりじりと間合いを詰めてくる。
幕末の志士の残党と、僕は対峙していた。
しゃぶりしゃぶり、と咀嚼の音がする。
腹を裂かれた風花は床に仰臥している。
その一太刀は儂が放ったものだ。
大蛇と化した彼女の顎を避けて、本殿の後陣の祭壇に掲げられている白鞘を取った。行商人を装っていたので、手元には小刀しか帯びてはいなかった。野盗にも数回の襲撃を受けたが、その都度、敵の刀を奪い凌いできた。
これもそのひとつに思えた。
六花の牙が肉に突立ち、舌で血を啜り、それを喉で呑み込んでいく。もう風花の右の乳房は齧りとられて空洞になっている。そして今は左乳房に齧り付いている。
六花が澄ました顔で、その童女の姿で、ああも手際よく野兎を肉にするのは、いつかこんな日が来るのを予感していたのであろう。
振り返って凄絶な形相で、にっとあどけなく微笑んだ。
「其方、痛みは感ぜぬのか」
「子を産むのに、痛みを知らぬ母親など居りませぬな」
その白皙の顔に返り血を浴びながら、涼しい顔で風花は言う。その血痕すら既に乾ききってぽろぽろと剥落している。体温がまだ保たれているからだ。
「其方は、もう死ぬのか。いや死ねるのか」
「死にませぬな。妾は六花になり申す」
身を喰われながら、自由になる右手でひび割れた板間に広がる黒髪を悪戯に弄んでいる。
「それで技を繋いでおり申す。妾もそうでございました。それも宿命ゆえに」
「儂は何をすれば良い。何が望みだ」
故意に斬られた。
そのくらいは察しがつく。
「この六花を人里に紛れさせ給う。宜しく願い申す。いずれ年端を経れば、妾の思いが蘇る。その白鞘をたもれ」
血に塗れた刃を風花は凝視して、何かの真言を呟いた。
「妾の細事はこれに封じており申す。これは物憑きにて夢で記憶を呼び出すもの。それを真名で封じており申す。其方が良かれと思う時期に、この白鞘に真名で呼び掛けてたもれ。それで六花に妾の想いが蘇るはず」
「その真名を儂に伝えるのか」
風花は柳眉を顰め、暗い相貌をして静かに言う。
「・・それよりも追捕の手が迫っておりまする。其方の関わりにあることかと。この社が十重二十重に囲まれるまで一刻は掛かりますまい」
立ち上がった。
「心得た」と親娘を安堵させるべく笑顔を見せた。
激しく息を継いだ。
膝を折って地についていた。
老剣士は顔面を斜めに割っていたが、一滴の血も流れてはいない。顔面からそのまま斃れて臥しており、灰色の蓬髪が四方に広がっていた。
いつかどこかで、そのような光景を見た気がした。
「・・よくできました」
背後から女性の声がした。
彼女の気配にも気付いてなかった。それだけ身を振り絞り、気魄を全て老剣士にむけていたのだ。
「君か?」
「そう、観ていたの。貴方にちゃんとひとが斬れるか、どうか。そうでないと背中を任せられないわ」
「お眼鏡に適ったかな」
鳴神六花は黒のワンピース姿で、スカートの裾を太腿に巻きながらしゃがんで、その老剣士の背に右掌を当てた。その瞬間にスッとその肉体が消失した。
「勤皇の志士だったみたいね。このひと。死に場所を探していたのよ。引導を渡してくれて感謝しているわ」
「そうか」
それでも死力を尽くしたのは、数戟を交わした呼吸で判っている。
「立てるかしら。家まで送るわ」
「問題ない」と眩暈を感じながら立ち上がったが、足元が覚束ない。
腰に六花の手が添えられている。
どれほどの気力を使い果たしたものか。
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