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長崎異聞 5

 けだし橘醍醐には不運がつきまとう。
 彼はその居間に置物のように硬直していた。
 頼みのユーリアは一礼して去っていった。その居間にいるのは醍醐独りのみである。その数瞬が数刻であるかのように彼には思えた。
 是非もなし。
 坂を転がり落ちる独楽の行方を誰もが知らぬように、醍醐はただ己が無鉄砲を信ずるのみである。
 数分後、その居間は誰のものか、それを知って彼は驚天動地におののいた。
 
 白皙はくせきの貴婦人が案内したのは、東山手でも奥まった邸宅だった。
 薄緑がやや入った白塗料で塗られた洋館があり、僅かな石段を踏んで玄関へ通された。下駄を脱ごうとしたがそのまま土足でいいらしい。
 高価な電気カンテラが、吹き抜けの回廊に灯っている。
 右手に彫刻のあるドアがあり、ユーリアが手を差し示して、布張りの寝椅子ソファを勧められた。醍醐はソファが好みではない。背後に人影が立つ度に神経が擦り減る。だが選択の予知などはない。その広々とした椅子に腰掛けると、床まで落ちるのではないかと思うくらいに、ふかふかに沈む。
 いかん。これでは軸足が定まらぬ。剣戟の一閃に遅れをとる。
 いや、結構と醍醐は早口でいい、ソファの隣に長刀を右脇に置き、侍座りをする。左片膝を立てて右足を潜らせて座る。これなら瞬時に、抜ける。
 眼前には低い卓があり、象嵌細工の技巧が尽くされている。
 回廊に人間の気配がする。
 陶器の触れ合う硬質な音がして、そのドアが開かれた。
「ようこそ、いらっしゃいまし」
 醍醐はいぶかしい眼を抑えきれず、不躾ぶしつけな視線を走らせる。
「暴漢からユーリアをお護りいただきまして、感謝の気持ちでございます」
 やはり日の本の民である。しかしながら彫りの深い西洋人めいた容貌をしている。黒髪を結い上げており、その後頭に赤珊瑚の櫛が刺してある。そこだけが日本髪にも見える。
「これは失礼を、亮子と申します」
 醍醐も名乗った。父が旗本八万騎の一角であった事も伝えた。
 西洋茶碗に茶に入れたものが卓上に置かれた。隣はかすていらという菓子らしい。目の前の茶は妙な色と香を放っている。まさかお小水ではあるまいかと、猜疑が湧いてくる。
「恐れ入ります。ソファをお使いください。お話辛いわ」
 是非もなし。
 彼はソファに収まる覚悟を据えた。長刀は右手で支えることにするか。
 ドアが開き、湿った花弁の香りがむっとする。
 ソファに尻を飲み込まれた醍醐の隣に、ユーリアが座ってきた。醍醐の顔が羞恥に紅潮する。
「これユーリア、はしたない。こちらにいらっしゃい」と亮子がたしなめる。
「でもそこは叔父様の席だわ」
「醍醐様のようなお侍は、婦女と同席しないものよ」
 わかったわとばつが悪そうに彼女は席を移動する。
 亮子はその席に右掌をかざして言った。
「主人は・・陸奥宗光はもうじき戻ります。暫くは私たちでご容赦くださいませ」

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