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アップルタルト #冬の香り
乗り換えはザーンダムだった。
冬風の吹くホームに黄色の二階建て列車がしずしずと入ってきた。
儂はYaraの手をとって乗車して、そのまま二階席へと誘った。螺旋状の細い階段で、彼女は少し躊躇したが指先に強い力が加わった。
もう細くなって薄い肉付きでも、柔らかさは昔のままだ、そう思った。
汽笛が鳴って、列車が動き出した。
ホームを抜けた場所はもう放牧地で、乳牛が草を探して歩いていた。もう冬枯れてしまっていて、干し草の時間までは待てないようだ。
「今日はどうしたの?」
「特別な日なんだ」
ザーンダムから暫くして古い港町のホールンが、地平の向うから手繰り寄せられてきた。懐かしい街だ。そしてYaraの故郷でもあった。
「まあ、里帰りさせてくれるというの」
この小一時間の旅でさえ、辛抱をさせた半世紀だった。
「ああ。感謝祭も近い。そこで何か佳いことをしてあげたい、そう考えた」
何度も思考して、推敲して、心のメモ用紙に書きつけては何度も畳んできた言葉だったが、不首尾に終わらずに話すことができた。
列車を下りて、駅舎を抜けた。
Yaraはぱんぱんに張ったスカートでも、軽やかに小走りになって街路に向かっている。あまり走らせると転倒でもしかねない。声をかけて肩を寄せた。
「時間はまだまだあるんだ。手をかけさせないでくれ」
「貴方、ボートはどう。また貴方がオールを持つ姿を見せて欲しいの」
「勿論だ」
儂はボートを借りて、桟橋から小舟に移った。
スカートを抑えながら、Yaraは緊張した面持ちで船縁を見つめている。翠色のスカートと、頭を覆う絹スカーフの色味を合わせている。そのお洒落さんは色褪せていない。
儂は手を出した。
骨ばって皺が刻まれて、老人班で染みだらけの手の甲。爪先に入り込んだ機械油はどんなに洗っても落ちることがない。
曇天を拾って、灰緑色の運河をゆったりとしたストロークで漕いだ。
「懐かしいわ。私が娘の頃、貴方が漕いでるその姿ばかりを覚えていた。ねえ、ホールン塔まで漕いでくれないかしら」
頷いた。そう、そう言ってくれると信じていた。
もう半世紀も昔のことだ。
儂も青年であったし、挫折を味わってこの地に流れてきた。そして彼女に出会ったのだ。
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桟橋に小舟を舫いで、塔を仰ぎ見た。
半円形をした特徴的な塔であり、この街の象徴である。
建設されたのは大昔であり、当初は海側を護る要塞状の石造りの見張り台になっていた。そして市街側はすっぱりとケーキを断ち切るように、煉瓦造りの顔を見せている。
市の紋章でもある、塔の赤いユニコーン像を直下から眺めていた。
「さあ、次はどこにいきましょうか」
彼女は儂の手をとった。その意味は分かっている。
この塔は暫く要塞の役目を果たした後、次には捕鯨カルテルの事務所になった。その後の中二階は上流階級仕立ての、瀟洒なレストランになっている。儂らの生活とは雲上の存在でもあった。
「予約をしているんだ」
その言葉に彼女は目を瞠った。まあ、という言葉さえ呑み込んだ。
「何か佳いことをさせて欲しいんだ」
二階に上がる螺旋階段には、オーダァした通りに、彼女の好みの花が活けられていた。それがふいに顔を出してくれた太陽の光をうけて、虹のように輝いていた。
Menuを見せると卒倒しそうなので、指を鳴らした。
大皿に芸術的に盛られた果実と、ワイン。
それに名物のアップルタルト。
渋みの強い珈琲がポットごと給仕された。
ボーイがウィンクをして、シャンパンに薔薇を一輪差して彼女の前に置いた。それは彼の奢りのようだ。
「まぁ、まぁ、どうしたの。こんなに贅沢を」
灰色の瞳がくるくると動き、頬が紅潮していた。
パンにチーズに、人参を刻んで食べる程に倹約をしてきた。夫婦の結婚記念日にも屋台で買ったものしか並べてはいない。
「今日はな、儂がきみを見初めた日なんだ。これからはお互いに萎れていく人生になるだろう。その前にきみの、また花開くような笑顔を見たくなった」
まぁ、まぁ、そんなものと瞳の端に光るものがある。
「珈琲が冷めるといけない。さあ、タルトの温かいうちに頂こうか」
「塩っぽくなると美味しくないわね」と洟をすすった。
その簡単なランチを終えて、幸福と果実でいっぱいになった腹を抱えて、また螺旋階段を下りた。
戸外に出て背を伸ばしていると、背中に彼女が頬を寄せている。
ありがとう、の声をそこで聞いた。
「じゃあ、次は私が、屋台で揚げたてのオリボーレンを奢ってあげる。いいこと?ひとつだけ買って、それをふたりで分けるのよ」
その嬌声はかつて聴いた声音がした。