長崎異聞 3
鶯がひと声囀って、一息の間が紡がれた。
そのひと声が背を押したように、醍醐は背筋を伸ばした。
「こんにちは」という声が降り注ぐ。
やはり妙な訛りと、高い音域が耳にこそばゆい。
声に一礼して返答したが、舌の根が固まっているのを恥じた。
異国の娘は洋服を纏っている。その衣服は振袖のような袂もなく、身体の線が露わに出て醍醐の肉体を騒がしている。血脈が疼くのを感じている。
大きな襟は白く上位は腕にぴったりとして、細い緑の縞模様になっている。また膨らんだ袴のような下衣を纏っている。裳と呼ぶということくらいは醍醐さえ知る。
橘醍醐は、女心が分からぬとは既に書いた。
また異人の心持ちなど、雲の空の話だとも既に書いた。
婦人はそのスカートの端を両手指でついと摘み、体全体を下げるような礼をした。それが正式な挨拶になると、分からぬままに飲み込んだ。
「不躾に声を掛けてしまいました。 Juliaでございます。お許しください」
もう訛りにも慣れた。声音にも慣れた。
だが流れてくる花弁を煮詰めたような匂いに、醍醐は呼吸もままならぬ。
「お侍さまですか」
「いかにも」
「では丸菱さまのお侍さまですか」
「いえ、奉行所勤めでござる」
「ではこちらにはお散歩なんですね」
「いえ、不案内でござる。その丸菱を訪うてみようかと」
散歩という習慣は彼にはない。その丸菱に雇い人の案内があるや無しや、ええい無鉄砲であろうとも、東山手に足を運べば天が助くとここまできた。
それがまさかの異国の娘との邂逅である。
醍醐はつくづく己が不運を呪うのだ。
「ではご案内いたしましょう」とユーリアは踵を返した。
坂の傾斜で、眼前に彼女の踵からふくらはぎが覗いて見える。いや見てはならぬ。見てはならぬが吸い寄せられる。
醍醐は視線を天に昇らせた。
中天は蒼天である。
そこに楡の大木があり、太枝が空に横切っている。
右手側にばさりと枝が落ちてきた。見れば庭師が脚立を立てて、その楡の小枝打ちをしている。醍醐に会釈をして侘びている。その足元で助手をしている小僧が落ちた枝を集めている。
どうも西洋人のお屋敷に見える。異質な白壁が塀の向こうに見えている。
「悪くないね、ご両人」と背中から声を掛けられた。
振り返ると風体のよくない中年の男が並んでいる。
浅葱色の羽織を纏っている。それに新撰組の意匠が染め上げられている。
醍醐の胸に静かに怒りが湧いてきた。
俸禄を持たぬ不逞な浪人崩れであろう。よりにもよってそれが醍醐にケチでもつけようというのであろうか。
人数は四人いる。四人いようが醍醐は構わない。しかもひとりが鯉口に指先を掛けている。
新政府になってから私闘は御法度である。
いえ幕府隆盛のみぎりから両者切腹の覚悟がいる。
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