ブリュッセルワッフル 1
簡素なB・Bに宿泊していた。
床が石造りで壁は白く塗られていて、バスルームはシャワーのみの共用だ。支払ったpayに相反して、温水が出るのが有難かった。
木目の鮮やかなベッドフレームに、マットレスには紫色の平織りシーツがかかっていた。そしてゆで卵と冷めたトーストにジャム、サラダがついて熱々の珈琲が用意されていた。
そうしたBedとBreakfastを提供するだけの、安宿を根城にしていた。
アントワープの市街は感謝祭に向けて、やはりどこか浮かれている。
どの店も技巧に過ぎるshow windowを誇らしげに電飾で飾っていた。
街頭には曲芸師や弾き語りの音楽家が列をなし、路傍の帽子に観客がコインを投げ入れる風景が至るところにある。
この時期の観光客を目当てにして、オヴェール通りのホールでは蚤の市が開かれていた。傍目にはとてもお宝に見えない骨董を争って買い求める群衆がいて、それを眺めるのも楽しみで、足繫く通っていた。
「貴方、日本人かしら?」
Lisaが初めて声を掛けたのは、ふと伸ばした手に注がれた視線を感じたときだ。当時つき合っていた彼女がSusie Cooperにご執心だったので、どれかをお土産にと、そんな雰囲気のカップを取り上げた瞬間だった。
ええ、日本人ですと答えながら身構えた。海外で誰かがそう尋ねてきたときには、碌なことに発展していない。
「・・ちょっとお時間頂けるかしら」
物憂げに彼女は言う。その口ぶりが強引ではないので、違法カジノに案内されることはなさそうだ。
ホールを出て次のブロックのCaféに入る。
店内は満席なので多少は涼しすぎるが、terrace席につく。丸テーブルには紅葉が一枚落ちていた。シュヘルデ川を渡る風で耳朶が凍りそうなのが心配だ。
彼女がボーイを呼んで、早口のフラマン語で注文した。私が注文をしようとすると、彼女は自らの唇をそっと人差し指で抑えてウィンクをした。どうも御馳走になるらしい。
「貴方に鑑定をお願いしたいのよ」
そうしてLisaがバッグから出したのは、古い和陶器だった。
その地肌の白胡椒のような色味、釉薬に枯れた柿色が残る料理皿。青く描かれた幹に梅の花が朱く咲き、そこに柿色の鶯が歌っていた。素人目には古伊万里に見えた。
「これ本物かしらね」
いや日本人だからといって、誰しもが陶器に造詣を持つものではない。
「いや、僕では判別できないね」
許しを得て写真を撮って、造詣が深そうな友人に送信してメッセを送っていると、ボーイが皿を運んできた。
長方形のワッフルにホイップとピスタチオアイスが添えられている。カットフルーツが瑞々しい。それに大振りのカップに濃い目の珈琲がつく。角砂糖と銀色のミルク入れの脇に、pralinéがサービスされるのがお国柄だ。
「ここの、私のおススメなの、ぜひ食べて欲しいわ」
美食家の誉であるベルギーっ娘は、小癪に片目をつぶった。
長い栗毛を後ろでまとめて、額を幾房で飾っている。澄んだ蒼天の色をした瞳、サクランボのような唇をしていた。ボトムは黒の光沢のある朱子織り、オレンジ色の撥水加工を受けたコートを肩にひっかけている。深翠の格子柄セーターだけで、そんな薄着でこの曇天に耐えられるのかと感心する。
彼女は空中で指を鳴らしてボーイを呼び、その意を得たりと彼はポットを持ってきて、チョコをゆっくりとワッフルにかけていく。
「あの壮麗なアントワープ駅にだってスタバなんかがあるのよ。本物のCaféを愉しんで欲しいわ」
成程、と思うほどそれは心を満たしてくれた。胃袋はもとより。
「貴方は、旅行者?」と彼女はフランス語で訊きかけて、途中で英語に戻してくれた。彼女らは普通に3か国語を操るので、どの言語で話しているかを混乱をすることが多々ある。しかもそれで波風立たず会話が続くのもお国柄だ。
「いや学生なんだ。ブリュッセルのacademyにtextileの研究に来ている。その卒業記念にDRIES VAN NOTTENでスーツを作っている」
「まあ、粋ね」
「ああ。一生の贅沢かもしれない」
まだ円に底力があった時代なので、そんな贅沢もできた。
お皿に余白が広くなり珈琲のお代わりをするほど待てど、送信した相手からはまだ返事がこない。
「ダメだ。時差がある。日本の趣味人だけど暫く時間がかかるようだ」
「なら、明日には私の家ではいかが。住所を教えるわ、メルアドも」
翌朝は矢が降ってくるような強雨だった。
そんな日に邪な予感に蓋をかけて番地を辿り、本当にその場所にアパルトメントがあったので、昨日の約束は夢見ではないと悟った。
ドアをノックすると半分だけ開いて、そこにLisaの顔が挟まった。水滴が付いていて、肩から下がバスタオルだ。思わずドアノブから手を離してドアの影にへばりついた。
「気にしないで、寒かったでしょう。タオルを貸すわね」
いや、この場面でタオルが必要なのはきみの方だ。
その滑稽なやり取りの奥で、誰だという野太い男性の声がした。
厄介ごとの予感に首を竦めた。