COLD BREW 14
蛍の光が聞こえてくる。
談話室のテレビからだろう。誰もが注視していない画面に、無音の空疎さを避けるためだけの番組が垂れ流しになっている。
季節柄だろうか、卒業とか、旅立ちとか、午前中の番組から別離の唄がよく漏れてくる。漫然とそれを耳にしながら、ああ卒業式には間に合わないだろうなと考えていた。退院時期がその日を跨いで横たわっていたからだ。
病室の枕元に甘い芳香が満ちていた。
看護師がカーテンを引いてくれたので、さらに濃密に彼女の匂いがする。
「ねえ、起きているの?」
僕は薄目を開けた、介助用の食事テーブルに何かが置かれていた。それで半身を起こしてそれを眺めた。
「傷はまだ痛むの?」
「もう慣れたよ。祐華が無事でよかった」
碧蒼の袋から小箱が取り出された。
紺色のベルベットに包まれた、多面形のジュエリーケースが畏まっている。映画では朝食を出すらしいが、可笑しいな、その時間帯は格子の入ったシャッターで護られている店のはずだ。
そのケースを祐華が取り上げて、僕の枕元で開いた。プロポーズのような仕草であり、事実それはそうだった。
「どう?婚約指輪なの。お仕着せで悪いけど」
その中にはサイズ違いの指輪がある。小さい方には銀色の地肌に控えめな石がある。細い爪がその石を握り締めている。妖精が牢獄に囚われているようにも、見えた。
「一体何の冗談だ」
「イニシアルはお願いして入れて貰ったわ」
確かに僕の名前が大きい方に彫られている。だがそれは僕の想いが彫られた訳ではない。
「勝手に作ったのは謝るわ。本当なら私がデザインして手造りしようと思っていたの」
また本当ならという口癖をいう。その《本当なら》という言い方に、いつも苛々していた。現実はここにあり、現実こそが真実ではないのか、と思った。
「どうしてこのタイミングで婚約指輪を交わす必要がある?」
「あのね。私ね。お見合いを進められていたの。父に」
だろうな、と思った。明治期からの洋館に住み、使用人のいる生活をしているお嬢さんだ。家系を連綿と編んできている一族であれば、彼女の婚姻こそが次代に向けての処世術になるだろう。
どこぞの野良犬の誇りや進退などは、現金の束で容易に購入できると父親が考えているのも真実だった。移動家具に収まっているそれを見せてやろうかという嗜虐心が湧いたが、堪えた。
「それを僕が贈ったということにするのか」
「そう、そうして欲しいの。でないと私の自由は守られないわ」
自由と引き換えに、このお嬢さんは失う対価を理解しているのだろうか。
僕たちのアパート、いや契約したのが僕だが。
高校3年になって木造のアパートを契約した。
経済的に進学などは考える余地もなく、就職を考えていた。
そして横須賀の小さな自動車工場の見習いとして週末は働き始めた。メカニックの知識が欲しかった。夜間まで作業が続くこともある。その工場に通うには実家から距離があるのでここに居を移した。まだ奨学金を貰ってもいるが、稼ぎをかき集めて生活していた。
祐華はこの寝ぐらにも現れた。
彼女にすればそれは、使い古しのテント並みの粗末さだ。
「東横線って混むのよね。ラッシュを避けると家には遠いのよ」
と薄っぺらな口上を述べていた。彼女は都心の芸大に通っているが、確かに中間地点には相違ない。しかしながら鍵を預けていると、通勤通学して帰宅する度に、その部屋が様変わりしていく。
まずエアコンが付き、分厚いカーテンが引かれた。
家財と収納が培養しているように増えていく。同時に食器やカトラリー単性生殖するように増えていく。いつしかそこは自分の城でありながら、軽く会釈をして入室するように他人行儀な内装に変化した。
それから誕生日に、と言って。
真紅の、狼を名を持つバイクが座っていた。
「残念だけど、自由の対価は君には重すぎる。君の家には、僕は軽すぎて釣り合わない。天秤にかけるまでもない」
不穏な空気を察したのか、遠くで咳をしていた患者がベットから降りて、談話室に向かってスリッパの底を鳴らせていった。
「覚悟は・・出来ているわ」
「君は世間に冷たい風が吹いているのを、まだ知らない。僕が終日働こうと、君の家ではランチ分にもならない。何度か行って思い知らされたよ」
それに、と言いかけた。残酷なことを言おうとしている。
「僕にはリングをはめる指はない」
彼女ははっとして、腰を浮かせた。その顔に左手を突きつけた。包帯に包まれようと、はっきりと解る。
「・・・貴方って、本当に冷血なのね、時々感じていたわ」
これでいい、と天井を見上げた。
「約束してくれる?」と言い、口を切った。
「私と別れた貴方は、これから独りで生きてくの。誰の人生とも重なることはないわ」
「約束は互いに交わすから約束になる。命令している訳ではないだろう。じゃあ僕の代償に君が請け負うのはなんだ?」
「私は・・・」と言い、俯いて考えている気配がある。
「他の誰かに抱かれながら、貴方のことを考えるわ」
苦いもので舌が痺れていて、声が奪われた。