【意外な結末】 いい人を全力で辞めてみた。
昔は長らく「いい人キャンペーン」を開催していた。
自分の願望はそっちのけで、ただひたすらに
に、重きを置いていた。
ひとえにそれだけを考えて
慎重にことばや行動を選び、「いい人」の皮をかぶって生きていた。
それをし過ぎたら、自分が分からなくなった。
自分の気持ち、自分という人間、生まれた意味や価値。何をしたいのか、どうしたいのか、何になりたいのか。
そんなものがさっぱり分からなくなった私は
と悟った。
自分という人間の「感情」を、ごみくずのように価値のないものとして扱っていた。
自分より他人が優先、そんなこと当たり前だった。
————それを、やめようと思った。
自分発信の、純粋な「やりたい」から来る行動ではなく
相手に「こう思われたいから」でする行動は、全てやめた。
慎重にしんちょうに、それまで塗り固めすぎてきた仮面を、一枚一枚はがしていった。
何度もなんども、四六時中、自分にこう問いかけるのが癖になった。
毎秒、毎選択ごとに私は、よく思われようとする行動を忌避した。
よく思われようとする自分自身を、憎々しく思っていた。
あれから8年以上たっている。
私はもう、あえて意識しなくとも、勝手に「相手がどう思うかより、自分がしたい行動を選ぶ」ことを無意識レベルで出来る。
毎秒、考えなくとも、ひじょうに繊細に
が常時、発動しているんだ。
————結論から言おう。
少々、私は「いい人になろうとすること」に敏感になりすぎてしまったみたいなんだ。
初めのうちは、いい人をやめるのが怖くて、おそろしくて。
こわごわと、でも「自分で選べるという嬉しさと、力強さ」を感じながら、日々の行動をあらためていた。
毎秒、自分だけに意識を向けている瞬間は、新鮮で、新しい自分になれるような気がして嬉しかった。
だけども人間、それだけじゃないんだ。
心のはじっこで「認められたい」という思いが隠れていても
残りの大半は「純粋な優しさ」で、相手のためを思って行動することもある。
ほんの少しでも「よこしまな気持ち」(こう思われたい)が混じった私は
誠実でないように感じて
これが心にあったとき、私は「行動しない方を選ぶ」ようになっていた。
だって、綺麗じゃない気持ちが混じっている気がしたからね。
だけどそうすると、どんどん行動が小さくなる。
「純粋な優しさ」が大半でも、ほんの少しもよこしまな気持ちが入ってない行動なんて、そんなに多くはないんだよ。
少しでも「よく思われたい」をにじませて行動する私を、私自身が「けいべつ」していた。
多くの優しさよりも、ちょっぴりの下心を、必要以上に過敏に攻撃していた。
でもそこまで、本当に必要だったんだろうかと、最近は思う。
下心まんさいの優しさでも、相手にとっては「親切」な行動だ。
自分のよこしまな気持ちを忌避することばかり考えて、相手へ思いやる気持ちを忘れていた。
私だって、たとえ純粋な好意ではなくとも
声をかけられたら嬉しいし、「職場の人だから」という建前があったとしても
言った言葉に笑ってもらったり、反応してもらえたら素直に嬉しいものだ。
つまり、気にしすぎなんじゃないかと。(笑)
そこまで潔白に、「いい人に思われたい」という気持ちを排除して
100%の好意だけをまとった行動だけを、しようとしなくてもいいんじゃないかと思った。
みんな、そんなものかもしれない。
家族でも親友でもない相手には、気を遣う気持ちも、印象を良くしておきたいという気持ちも、働いて当然。
むしろ、100%の純粋な好意しかダメなのなら、ほとんどの行動ができなくなってしまう。
みんな、何かしらの折り合いをつけて、大人の人間関係を生きているのかな。
固い考え方しかもてない私は、柔軟な適用ができなくて、これまで極端な行動しかとってこなかった。
だけどもう、いい人になろうとしても、良いのかもしれない。
「よく思われたい」という気持ちを、そこまで捨てようとしなくてもいいのかもしれない。
だってそれは、白か黒かで判断できるほど、単純な話ではないし
「いい人だと思われたい」も、自分の気持ちの一部分なのだ。
そればかりが先行して、全く自分の気持ちを置いてきぼりにするのも、考えものだけれど。
一度、徹底的に「いい人」をやめて、他者評価に根ざした行動を全てやめてようやく、そんなバランスを考えられるようになった。
自分へのうそに気づけるようになって、相手に比重の傾いた考え方をただせたのは、間違いなくよかったと思う。
ただ、心底あきるまで「いい人」をやめようとやり切ったからこそ、今のような考え方ができるようになったんじゃないかな。
これが、大人になるってことなんだろうか。
うぅむ。。
おわり。