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自然に親しむ――続・古文を読むための生活感覚(2013年6月29日)

 私は、古文と同じくらい、なぜか科学にも興味があります(職場で購入している『日経サイエンス』は愛読誌の一つです。もちろん、難しすぎてわからない内容も少なくないのですが……)。そして、日本人科学者が数々の分野でノーベル賞を受賞してきたことには、同じ日本人として誇らしいものを感じています。そして、多くの受賞者たちが、同じようなことを口にするのに気づきました。

 自然に親しむ――ということです。

 河合隼雄氏の兄である河合雅雄氏の『子どもと自然』(岩波新書/1990年3月)の中でも、自然に親しむことの重要性が述べられています。「Ⅴ 文化と自然」の最後に、「私事で恐縮だが、私の父は散歩が好きで、夕方よくお城や神社などに連れていってくれた。子犬のように嬉々として、まとわりついたり走りまわったりしながら、夕焼雲の美しさにうっとりしたものだ。そんな幼い頃の記憶は、今も鮮明である。」と記されています。河合雅雄氏は京都大学の霊長類研究所で長くサルの研究をされた方です。理系の研究者の原点が、「美しい夕焼雲」に見とれることだったというのです。


 〝どうしたらノーベル賞がとれますか? 子どもたちに一言〟――といったマスコミのインタービューは、どの受賞者に対してもされる月並みな質問の一つですが、〝ゲームなんかしてちゃだめだ〟と強い口調で訴えていた方もいました。ゲームは結局、人間が思い描く範囲内でしか展開されることのない〝予定調和〟です(私はよく子どもたちに言います。思い通りにならないから人生に期待できない、のではない。予定通りにならないというのは予想外のことが起きるということ。だから、人生はゲームより断然おもしろい!――と)。

 夕焼けだって予定調和ではないかって? それは違うと思います。ゲームを作っているのは人間です。夕焼けは誰が作っているのでしょうか。ゲームと夕焼けじゃスケールが違います。いや、次元が違います。

 そこでまた、酒井雄哉(ゆうさい)大阿闍梨の『一日一生』(朝日新書/2008年10月)をひもといてみたいと思います。

 ある明け方、とても美しい光景に出くわしたんだね、阿弥陀堂の近く、眼下に琵琶湖が見えるところがある。
 そこに東から朝日が上がってきて、輝きながら空をあかね色に染めていた。なんとも美しいなあと思いながら、朝日を拝んで浄土院の手前の山王院というところまでやってきた。
 すると今度は、白夜のようなほの明るい空に、お月さんがさえざえと照っている。ものすごく澄んだ青い光だった。太陽の赤い光と月の青い光。青と赤の光を感動しながら眺めていて、ふと思った。
 そういえば、毎日毎日、根本中堂をお参りしている。根本中堂のご本尊はお薬師さんだ。お薬師さんのわきに日光と月光の菩薩が脇を固めている。赤いのは日光菩薩で、青いのは月光菩薩だなあと。こりゃ、すごいと。
 お薬師さんが真ん中に座して、日光菩薩、月光菩薩で三尊仏。お薬師さんが、いままさにぼくに、そういう光景を見せてくれている。
 そして、ふっと思った。「それならば、お薬師さんご自身はどこにいるんだろう?」って。キョロキョロしてみたんだけれども、どこにも見あたらない。
 そして、ハッとした。こちら側にあかね色に照る日光、反対側にさえざえと青い月光。仏さんはその真ん中にいるはずだ。だとしたら、いまぼくが立っているここにいるのじゃないか――。
 自分の心の中に如来様がいて、日光と月光が自然のなかに立っている。その真ん中にいるのが仏なんだ。なるほどそうか、仏さんなんて探したっていないんだな、自分の心の中にあるんだな、そう気づいて、しばらく時間の経つのを忘れて突っ立っていた。
 仏さんはいつも心の中にいる。自分の心の中に仏さんを見て、歩いていくことなんだな。
『一日一生』「仏はいったいどこにいるのか」より)


 科学者も宗教者も、自然の中で人間が生きることの真実を追求する点で変わらないのだと思います。なぜ、日本人にユニークな科学者が多いのか。自然や生命への畏敬と、そこに近づきたいという情熱や憧れを純粋に持つ方が多いからではないかと私は考えています。しかし、このあり方というのは、宗教者、いや、毎日「同じ時間に同じようにそのことを繰り返す」人たち、私が熊野神社で毎朝会う人たちとも変わりません。
 ――私はそこに、大いなるものに生かされていることに対する畏敬の念やなつかしい(古語でいう「そこに近づいていきたいという親しみ」を覚えます――と、先にこうブログで述べました。

 何事も〝それが当たり前だ〟と小賢しい頭で考えるようになれば、人間が狭く、つまらなくなるのではないのでしょうか。そんな態度で、ノーベル賞科学者や人々を導く宗教者になどなれるはずがありません。大いなるものを「神」「仏」として信じた人々の価値観を記す古文など読めるはずもないのです。

 科学技術の分野においても、思想や文学・芸術といった文化の面においても、真に強い日本と日本人の復活には、一つの大きな道を行く必要があります。――自然への敬意と憧憬です。つまりは、日本人がこれまで積み重ねてきた文化への敬意と憧憬が必要です。古文を読むことにも欠かせないものであると私は思います。古文が読めるというのは、単に古典文法がわかるということではないのです。
 だからこそ、自然に親しむことが不可欠だと、科学者も宗教者も、心ある方は訴えているのです。しかしながら、こんな大事ことですら日本はすでに商業主義に侵され、本当の意味で自然に親しむことがどうしたら可能なのかと悩んでしまいます(これについて模索を続けるのは私の役目の一つだと思っていますが……)。

 そこでまずは、私の方法で大変恐縮ではありますが、お住まいの地域や通勤・通学されている先の神社仏閣に通われてみるのはいかがでしょうか。その時ポイントとなるのは、神社仏閣が木々に囲まれていること、地域の方々に守られていることなどだと思います。
 自然や生命への畏敬という日本の伝統を重視し、お金儲けではなく純粋に地域の信仰を支えている神社仏閣かという点が重要だということです。

 さらに、変に期待して願掛けしたりするのは控えるべきでしょう。今の生活に感謝し、本気で古文を読めるようになりたいと願い、そして、文法や語の勉強を日々欠かさないことが何よりも大切です。

 取り戻しましょう。祖先の生活感覚をせめて、国語に携わる私たちだけでも。

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