安彦忠彦先生の『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』③(2019年2月3日)
2018年末の記事で、本ブログの内容等を少し変えていきたいという旨を宣言しています。
そして、2019年初めの記事で、なぜそうするのかという理由をつづりました。
安彦先生は、教育の目的が「望ましい主体を形成すること」、つまりは、人格形成にあるとしています。その上で、2014年4月4日に公表された「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」(次期学習指導要領の在り方を検討してきた有識者会議)の名称にもある「育成すべき資質・能力」の中の「資質」という用語に注目しています。
にもかかわらず、この「資質」という用語が、検討会において厳密な定義もなされず、用語法の議論も深まらなったということに疑問を持たれています。
筆者は「資質=生まれつきの性質や才能、資性、天性」(広辞苑)という辞書的定義からして、「もって生まれた資源としての性質」という理解の下で、「後天的に身につけさせるために、教え育てること」が可能な「能力」とは異なり、「生来の性質で、中には磨かないと外へ明瞭に表れないもの」もありますから、明確に「能力」のようなペーパー・テストで測れるものとは異なり、「面接」「口頭試問」などで見て取るものである、と区分しようとしたのですが、改正教育基本法の第一条の、「教育の目的」規定の中で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」という文言のように、それが能力的なものを含む広義に使われていることもあり、厳密に使い分けることは避けたのです。
上記のような事情を鑑みながらも、安彦先生はこう述べます。
実際に「資質」を「能力」と区別しないと、どうしても「能力」の検討ばかりに偏して、「人間性・特性・個性・性格」などといった「資質」固有の部分の吟味がおろそかになる傾向があります。そこを政治家に、人間性などに絡んだ「道徳教育」が軽視されていると横槍を入れられて、かえって望ましくない状況を生んでしまう、といった経緯を繰り返してきたようにも思います。この「資質」こそ「人格」と不可分の部分であり、もう少し正面から専門的に議論すべきなので、これを少し「人格」面から考えてみたいのです。
まず、「能力」と「学力」の異同を明確にするのですが、これらの語も「かなり適当に使われています」としつつ、「学力」が「「学校の教育課程で育てられる能力」であり、それ以上でもそれ以下でもない」、「子どもの「学力」を全体的かつ絶対的なものとして表しているわけではない」と見ます。
また、「筆者の言葉で逆に言えば、「学力の客観的対応物が教育課程」であり、「教育課程外で育った能力」は含まれていない、「能力」の育成には、「必ずしも教育課程に当たるものが必要である」とは言えない(「原っぱや川での遊びの中でも、また地域の行事等の中でも、様々の「能力」を身につけることができる))とします。
そして、単なる「能力」とは区別されたその学力を「理念学力」「測定学力」「形成学力」の三つの意味で区分します。
(つづく)
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