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安彦忠彦先生の『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』①(2019年1月14日)

 前々回、2018年末の記事で、本ブログの内容等を少し変えていきたいという旨を宣言しています。

 そして前回、2019年初めの記事で、なぜそうするのかという理由をつづりました。

 ――このブログで、本当の意味で世界にはばたく日本の子どもたちを育てるために、考えていきたいと意図しています――とは大きく出ましたが、偽りのない気持ちです。
 自分と関わった人(生徒を含む)をより《人》として、《その人個人》として、良い方向に導ければ自分としては満足ではあります。しかしながら、学校も一つの組織と考えた時に、組織では何らかの形で組織全体(一部であってもより重要度の高い部署)にあって、より多くの人員に影響を及ぼすことができる立場にならなければ、自分の取り組みはごくごくわずかなところにしか影響を及ぼしません(たとえ広範囲でなくても、深い影響を与えることはできるし、意義のあることだ……といった考えはここではおいておきます)。
 そのようなわけで私は、組織に影響を及ぼす立場の人が「人格者」であることが重要であると常々考えてきました。「人格」をキーワードにした際に、さまざまな気づきをもたらせてくれたのが、安彦忠彦先生の『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』(2014年12月25日/図書文化)でした。

 安彦先生のご講演を拝聴してからこの本を購入したのでしたが、副題は「人格形成を見すえた能力育成をめざして」となっています。ご講演でも私が最初に関心を抱いたのは、教育においては「人格形成」が主、「学力形成」は従であると安彦先生が示された点でした。
 精神科医V・E・フランクルの説を引用され、次のように説明されています。

 精神科医V・E・フランクルは、人間を外から内へ、「身体」「心理」「精神」の三層から成る存在と考えました。
(中略。同ページで安彦先生は上記の概念を「円錐の形にモデル化」しています。)
 これによって見れば、「人格」は広義には全体を指すとともに、狭義にはその中核に位置する「精神的主体」を指すものであり、他の「心理」と「身体」はそれによって支配される「道具的客体」と見なされます。つまり「心理・身体」に関わる「能力」、ひいてはその一部である「学力」は、「精神的主体」たる「人格」によっていかようにも用いられる「手段」なのです。
 ここから筆者は、もう一つ大切なこととして、カント的な意味においても、「人格」は主体・目的であり、「能力」「学力」は客体・手段だと位置づけることが重要だと考えます。能力・学力は手段視できますが、人間人格を、けっして何かの、また誰かの手段視してはならないということです。この意味で「人格形成」は「主体形成」であり、「学力形成」は「手段形成」に過ぎない、つまり、学力は人格が使う手段に過ぎない、いくら手段を優れたものにしても、それを使う主体・人格が優れていなければ、社会的には正しく生かされない、ということを強調したいのです。

 よって安彦先生は、教育の目的が「望ましい主体を形成すること」であり、「学力形成はそれに従属する、あるいはその目的に役立つ限りでの手段形成なのだということです」として考えをまとめられています。

 「組織に影響を及ぼす立場の人が「人格者」であることが重要であると常々考えてき」た私は、ご講演の際にも、本を手に取って読んだ際にも、この部分でまず深く頷いていたわけがわかったのでした。 (つづく)


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