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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(192)斯波家長の「策四」に込められる関東の仲間とともに描いた〝理想〟を引き継ぐ上杉憲顕……しかし、彼らが守りたいと願う足利直義こそが一番の不安要素と化す!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2025年3月2日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「家を売ればいいでしょう山内殿 参陣せねば所領全てを没収ですよ

 『逃げ上手の若君』第192回冒頭で、「凍てつくような冷徹さ!!」という編集部の秀逸なコピーとともに、高師直の猶子・師冬として生きる吹雪が、「山内殿」と彼が呼ぶ武士(山内経之)にそう言い放っています。
 山内経之のことは、巻末の『解説上手の若君』を読んで初めて知りました。松井先生の手によって七百年の時を経て人気少年漫画に登場する、まったくマイナーな武士の皆さんたち一人一人の生きた証がまぶしいばかりです。
 それにしても、作品初登場時の吹雪が、瘴奸たちに親を殺されて壊滅した村の子どもたちに対して愛情深く接していたことを、もはや忘れてしまいそうです。

 「だが時行君から聞いたよ 仮面の下には別の顔があるんだろ?

 第192話では、時行らと伊勢で別れた春日顕国の最期の場面が描かれてもいました。そこで、顕国は師冬にこのように告げています。
 また、顕国の言う「地下道を掘って攻め落とす策」がとても気になったのですが、私の手持ちの資料や実力ではわからず(ご存じの方があればぜひご教示ください!)、「常陸合戦」といったワードで必死にネットの検索をする中で、こちらの動画に行きつき、春日顕国が最後までしぶとく抵抗したことと東国の南朝方の武将たちの転変を知りました。

【茨城県の歴史】南北朝時代、"茨城"では何が起きていた? 北畠親房、高師冬らの激闘〔歴史トラベル - REKISHI TRAVEL〕


 〝転変〟よりも〝変節〟といった言葉の方が適切な武将もいるなと思いつつ、春日さんの方が当時としては異例だったのかも……と思ったりもするのでした。
 上で触れたようにネットを検索する中で、「山内経之」さんについて多くを知ることにもなりました。本当に苦しい経済状況の中で師冬に従い、逃げ帰ってしまう兵に苦しめられ、金策に追われ、そして、常陸合戦の勝利を見ぬままに亡くなってしまったこと、そして、彼の苦闘の生涯の一端が知れる書状が、つい最近まで私たちに知られることなく、経之ゆかりの寺の不動明王像の胎内に眠っていたこと……経之の生命の軌跡と残された家族や知人の思いに対し、心を寄せずにはいられませんでした。

 ※山内経之の詳細については、「多摩市立図書館/多摩市デジタルアーカイブ」の「高幡不動胎内文書と山内経之」等の記事で知りました。


 それを思えば、自身の家族や一族郎党のために、信義にこだわり続けることができないとなるのは、大きな集団を率いる武士ほどいたしかたないことであったのかという考えにも至ります。
 ではなぜ、顕国には変節がなかったのか。……武家と公家との家の成り立ちが違うからといった事情も影響しているのかもしれませんが、少なくとも『逃げ上手の若君』という作品においては、公家であることを誇りに戦って散った顕家の、腹心の部下としてのプライドを感じました。また、それ以上に私は、顕国が顕家に対して抱く敬意と信愛を感じました。

 「ネタが出すぎて顕家卿に勝ってしまう

 何においてであれ、「顕家卿に勝ってしまう」なんてことがありえないことを顕国自身がもっともよくわかっていることが前提で、どこまでも自分は顕家の理想を戴いて戦ったということを、公家らしいひねりを加えて(ストレートな物言いをしないで)表明した発言なのだと私は考えました。ーー彼が最後まで戦った理由とは、北畠顕家が奥州武士たちとともに目指した理想の国作りを諦めたくなかった、その一心であったと私は信じています。

 ※「北畠顕家が奥州武士たちとともに目指した理想の国作り」は、私のこのシリーズでこれまでに何度もその考えを述べております。〝まだ読んだことないよ〟という方は、以下をご覧ください。

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 「天下の中枢は君が思うほど甘くない そんな野心が露わな顔では皆の信頼は得られないぞ!

 「クククそれでいい これでお前は天下の武士だ

 「政治」的にまさった上杉憲顕に追われることとなった高師冬こと吹雪の脳裏に、二人の人物の声が響きます。一人は、かつての主君である時行。そしてもう一人は、自分が殺した父親です。ーー時行については回想で、父についてはおそらく妄想の類なのですが、尊氏の「神力」に侵された者には、自らの心の闇(不安や恐怖などのネガティブな秘された感情)が、まるで現実のように立ち現れるのではないでしょうか。そうであれば、吹雪の「野心」は、本当は認めてもらいたかった父への歪んだ愛情や贖罪の気持ちの表れなのかもしれません。
 さてここで、亀田俊和先生の『観応の擾乱』より、師冬と憲顕とが対立した状況などについて確認してみたいと思います。

 貞和六年(一三五〇)正月三日、 高師冬が関東執事に任命されて、東国に下校した。
 これに先立つ暦応二年(一三三九)にも、師冬が関東執事として東北に赴任して南朝北畠親房と熾烈な戦いを演じ、勝利したことは前述した。その後、康永三年(一三四四)に関東執事を高重茂しげもち(師直弟)と交代して京都に戻り、伊賀守護を務めていたが、このたび再度関東執事に選ばれ、また重茂と交代する形で関東に行ったのである。
 今回の人事はもう一人の関東執事上杉憲顕が熱烈な直義与党だったので(奥州探題と同様、鎌倉府も両執事制を採用していた)、それに対抗するためである。上杉憲顕は尊氏・直義兄弟の従兄弟である。関東執事および伊豆・上野・越後守護を兼任していた。直義に「諸国の守護が非法を行っている中、上野国の統治が法律に則って殊勝であると人々が評価しているのは感激きわまりありません」と絶賛されるほど高い信頼を得ていた。歴応元年一二月に同族の上杉重能が出仕を止められた際にも、代わり上洛することを直義に命じられている。
 このような強力な直義与党に対峙していた高重茂は、関東執事のほかにも武蔵守護や引付頭人を歴任した有能な官僚で、和歌にも堪能な文人であった。しかし合戦は兄の師直・師泰に似ず、非常に苦手だったようである。そこで尊氏ー師直は、以前関東の南朝軍に勝利した実績を誇る師冬を再度派遣することにしたのである。

 
 高重茂というのは、青野原の戦いの時に「兄貴達はオラつきすぎて」と嘆いていた彼ですね。奥州での戦いに決着がついたので一度は京に戻された師冬でしたが、足利尊氏と直義兄弟の対立が深まる中で、上杉憲顕を筆頭とした直義派が多い関東の緊張は京よりも緊迫したものであり、重茂の官僚的な手腕だけでは万が一の際には厳しいであろうという判断の中で、師冬の関東執事の再任がなされたことがわかります。
 かくして、「観応元年(一三五〇)一〇月に、師直の重臣である武蔵守護代薬師寺公義やくしじきんよしが下総国古河こがを経由して、常陸国信太上条しだかみじょうに進出」したことで、直義派も動きます〔亀田俊和『観応の擾乱』「第3章 観応の擾乱第一幕」「3 地方における観応の擾乱ーー東北・関東など」内の「関東の戦況」より〕 。

 同年一一月一二日、その信太荘で上杉能憲よしのり(憲顕の子)が直義派として挙兵した。同年一二月一日には、上杉憲顕も自身の守護国上野に下った。
 二五日、高師冬は上杉氏を討伐するため、新鎌倉公方足利基氏を奉じて鎌倉から出陣し、同日夜に相模国毛利荘湯山もうりのしょうゆやまに到着した。だが、直義派石塔義房らが基氏の護衛を襲撃し、二九日に基氏を鎌倉へ 連れ戻した。
(中略)
 基氏を奪われた師冬は劣勢となり、甲斐国へ没落した。翌観応二年正月四日、上杉憲将のりまさ(憲顕子息)が数千騎の軍勢を率いて甲斐へ出陣した、一方、上杉能憲は東海道を下り、直義との合流を目指した。
 以上、関東地方においても直義派が圧倒的に優勢の戦況となった。
〔同上〕
 ※関東地方においても直義派が圧倒的に優勢の戦況となった…東北では、畠山高国・国氏父子と吉良貞家とが奥州探題として共同統治をおこなっていたが、擾乱の勃発により両者は対立、観応二年(一三五一)二月一二日、陸奥国岩切(いわきり)城で直義派の吉良貞家に包囲されたが畠山父子が自害したことで、東北地方でも直義派が勝利している。


どんなに優秀な武将や政治家であったとしても、野心のみで戦いや国作りはできない
……上杉憲顕にその事実を突き付けられ敗走する高師冬(吹雪)


 「政治力では上杉の方が上手うわてだった」「いかなる戦上手も 政治で敗けては戦いようがない

 「戦上手」以上に必要な「政治力」とは、一体どういうものなのでしょうか。本当の「戦上手」とは、武力で戦うことなく勝利を収めるものだということを聞いたことがあります。
 今回、斯波家長と関東庇番が憲顕の回想で登場し、家長が大好きな私は思わずうるっときてしまったのですが、そういう意味では『逃げ上手の若君』での家長は、杉本寺での戦況不利を見て取ると直ちに、憲顕に偽りを述べてまで自分の命で戦いの損傷を最小限に抑え、関東が不利にならない策を憲顕に授けています。そして、その「策四」は、十六年の時を経て現実的な力となって憲顕ら直義派を動かし続けているのです。
 そこで気づくのは、家長はどうにも「策」(計算)のエグさが際立ってしまい見失いがちであるのですが、実際はとても強い〝情〟の人であったという事実です。

 「家長殿の先見の明お見事 必ずや直義様を守りますぞ

 家長が「策四」で示した、「私財を費やしてでも」憲顕が「関東の武士の心を全力で掴」み、それによって「人望」と「勝利」を得ることの背後には、「直義様を守ります」という目的があることを、憲顕のこの言葉によって知ることができます。また、憲顕の「関東庇番以来十六年築き続けた信頼ですぞ」であったり、「庇番衆が見たら怒るか嘆くか面白がるか!」といったセリフからは、彼の中から「関東庇番」の仲間が消え去ってはいないことが伺えもするのです。
 家長の「策四」には、庇番の仲間たちとともに関東の地に赴いた時に抱いた〝理想〟が込められ、それが憲顕と関東の武士たちに共有されている姿が第192話の中では描かれているのですね。
 憲顕は、家長が死ぬ間際に見た「未来」の中では、自分の都合を優先してなのか日程が合わないかといった理由でおそらく家長のもとを訪れてはいないですし〔第129話「斯波家長1337」〕、公家出身のクールな(マッドサイエンティストの裏の顔を持つ)キャラではあるのですが、実は熱いハートの持ち主なのだというのが泣かせます……。第182話で初登場の足利基氏ですが、古典『太平記』では、基氏が憲顕によって「をさなきより懐き巣立すだてられし」〔=幼い頃から大事に養育された〕と記され、今後上杉憲顕にはいろいろあるのですが、何があっても基氏が側に置きたがるほど頼りにした存在であったことが伺えます。
 『逃げ上手の若君』では、実の息子たちを「犬に育てさせた」というマッドぶりのギャップがまた笑いを誘います。親の憲顕が「強く言えない」のですから、「ご子息のお二人も強いのですが 獣のように戦うばかりで統制がとれず!」と報告する部下たちはもっと困りますよね(苦笑)。子どもを「犬に育てさせた」りするのは絶対ダメ!ということは、彼らの初登場時にこのシリーズで触れています。

 上の記事を読んでいただければわかると思うのですが、能憲と憲将の二人が着物を着て、言葉を理解し、敵を認識して襲えるというのは、人格者すぎる重能のおかげとしか言いようがないでしょう。「獣のよう」な彼らが、誰かから言わされているわけでなく、自らの意志で師直と高一族を「殺ス! 喰う!」と言っている本気の迫力に、憲顕は「ひいぃ」とひるんでいるのだと思います。個人的には、重能の「義父殿」と危険なお子様たちの生活に密着したほっこり(?)スピンオフ作品を期待しています。

 ここまで記してきて、実のところ、直義派の不安要素は足利直義本人でないかという気がして私はなりません。特に直義への思い入れはないはずの私の妹ですら、〝直義の人相が変わってしまってコワイ〟と嘆いているくらいです……。
 直義は、尊氏と師直とが直冬討伐のために出陣した隙をついて、京都を脱出しています。亀田俊和先生の『観応の擾乱』では、尊氏と師直の二人が、当初は「直義の脱走を大した脅威でないと考えたのも首肯し得る」としています。一方で、「直義が京都を脱出したのは自身を暗殺する計画を察知したためとする見解もある」そうです。亀田先生は、直義の「行方さえ捜索しなかった尊氏ー師直に暗殺の意図などあったわけがない」という考えを示していますが、「直義の主観はともかくとして」と前置きしています。
 直義の京都脱出は、第192話にもある通り「南朝に降伏」するためであったわけですが、南朝では「激論が交わされ」ます。「ただちに軍勢を派遣して直義を殺害すべきだとする強硬論も強かった」という中で、北畠親房の「一度降伏を受け入れて彼の勢力を糾合し、皇統を統一したうえで逆賊を滅ぼすべき」という意見が採用されたということです〔〔亀田俊和『観応の擾乱』「第3章 観応の擾乱第一幕」「2 直義の挙兵と南朝降伏」内の「直義の京都脱出」「直義の南朝降伏」より〕〕。
 直義のことですから、殺される可能性があることは十分理解していたでしょう。親密だった北朝の光厳上皇を裏切ることになることも無論です。そこまでの危険を冒し、これまで築いてきた信頼関係を自ら破壊することも承知の上でこの「策」を取った直義の気持ちは、想像に余りあります。
 亀田先生は、「いかに勝利するためとはいえ、直義の南朝降伏は禁じ手を使ってしまった感がする」と率直に述べています。頭脳明晰で優秀な政治家であった直義にこの「禁じ手」を使わせたのは、刺し違えてでも復讐を遂げたいという、彼の身心を燃やし尽くすかのような激情だったのではないでしょうか。
 そういうわけで、直義派の武将たちの中で現在、戦いの先にある〝理想〟を求める姿勢に最も欠けているのは、直義であると私には思われるのです。兄・尊氏や師直への憎しみが動機の戦いとは、〝野心〟があっても〝理想〟がない高師冬と変わりません。ーー師冬と直義、史実としての二人の運命を知る私ですが、『逃げ上手の若君』においては、もともとは善良であった彼らの過ちに対して救いがもたらされるのかが気になるところです。

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 第192話の最後は、成長した諏訪頼継と時行率いる逃若党の登場です。
 頼継、お祖父さんの頼重に似てきましたね。そして、時行と弧次郎の身長がぐんと伸び、たくましく成長している姿に感激しました(特に弧次郎)。
 ーーいよいよ、相模川で別れて以来違う道を進んできた吹雪との最終決戦です。

〔亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕


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