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安彦忠彦先生の『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』②(2019年1月20日)

 2018年末の記事で、本ブログの内容等を少し変えていきたいという旨を宣言しています。

 そして前々回、2019年初めの記事で、なぜそうするのかという理由をつづりました。

 私は、組織に影響を及ぼす立場の人が「人格者」であることが重要であると常々考えてきました。「人格」をキーワードにした際に、さまざまな気づきをもたらせてくれたのが、安彦忠彦先生の『「コンピテンシー・ベース」を超える授業づくり』(2014年12月25日/図書文化)でした。
 安彦先生は、教育の目的が「望ましい主体を形成すること」であり、「学力形成はそれに従属する、あるいはその目的に役立つ限りでの手段形成なのだということです」として考えをまとめられています。「組織に影響を及ぼす立場の人が「人格者」であることが重要であると常々考えてき」た私は、ご講演の際にも、本を手に取って読んだ際にも、この部分でまず深く頷いていたわけがわかったのでした。

 教育の目的が人格形成にあるとした安彦先生は次に「人格」の定義を示されます。

①フランクルによる「人格」の定義
 先生は、先に引用したフランクル(『識られざる神』より)の明示する「人格」を次のように要約します。

 無意識的な価値・意味の層を核にして、自分を見つめる超越者との関係で、自分の意思を働かせ、自由に善悪・美醜・真偽を判断し、望ましい自己の心身と精神の統一性と全体性を、個性的に時々刻々つくりかえていく自我的な働きを具えた、主体としての存在

②安彦先生による「人格」の定義
 「「人格」という用語は哲学者カントに由来し、教育学の世界では、それに人格心理学者のオルポートの「人格 personality」の定義と合わせて考えられて、哲学的・心理的に理解されてきている」ことを確認した後、次のように要約しています。

 人格とは、自我意識を働かせ、自己同一性を保ち、それによる善悪等の価値判断や自由な意志決定を行うなどの、主体的で自覚的な在り方や自律的能力が最大限尊重される、他のすべての生物・無生物とは区別される人間性(人間の独自性=人間らしさ)の全体的性格のことである

③「人格」は、手段視されない自立的性格をもつ
 さらに安彦先生は、南原繁(『対話・民族と教育』から)や矢内原忠雄(『主張と随想』から)が「人格」を「人間性」と言い換え、「他の動物等と比べて、「人間の固有の性格特性」として「人間である限り平等に尊重されるべき価値のあるもの」であり、これを、より社会的・政治的観点から述べ」て、次のように表現する。

 人格とは、個性と自由を認められて、主体性と自律性をもって生きる権利をもち、人間として平等に尊重されるべき、手段視されない自立的性格のことである

 ここまで論じて先生が強調され、危惧されることは、「「人格」のもつ「自主性・主体性」は意外に多くの人に自覚されず、「能力・学力」面での「学習意欲」などの問題に矮小化されて」いることです。

 まず人間としてその「人格」が尊重されないまま、いくら「学力」の向上のために「学習意欲」だけが注目されても、結局、手段的に扱われ、無理に動機づけられて、意欲を引き出されても、子ども自身にとっては何か自分が大切にされているとは思えないでしょう。それは、結局、子どもを国や大人の操作の対象として、人形かロボットのように、何かのための道具として扱っているからであり、逆に国や社会を対象化して吟味する自由と能力を認める、真に子どもの内的な主体性・自主性それ自体を、目的として尊重してるわけではないからです。「人格」として扱っているか否かについては、この点に十分留意すべきであり、その吟味を欠かしてはなりません。

 私は中学入学以来、私学で学び、私学で教えてきました。
 私学には建学の精神とそれに基づく校訓があり、私は自分が学んだ学校のそれの影響をいまだに強く受けていると思います。宗教系の学校だったせいもあると思いますが、自分が「道具」として扱われたと思うことは一度もありませんでした。在学中に、長く勤める先生の一人が「最近、第二志望で合格してきた生徒が保護者ともども学校を悪く言うのが悲しい」と言っていたのを思い出します。

 最初に勤めた学校は校訓がすばらしく、多少極端さを感じながらも、校訓にブレのない指導が気に入って長く勤められたと、今さらながら思います。それなのにそこを離れたのは、どうしても古典を自分の思うやり方で教えてみたかったのと、受験指導に力を入れ始めて校訓と実際にブレが生じてきたからでした。いまだにそこに勤めているかつての先輩や同僚に話を聞くと、学校を嫌いにならない内に去れた自分は幸せだったかもしれないと思わずにはいられません。
 そのあと移った学校は思い出すのも辛いです。生徒は、学校と学校を運営する方たちの自慢の道具なのではないかと疑いました。その学校では、何人もの人たちの人格もまた疑わざるをえず、本当に辛く苦しい経験でした。しかし、教育の「手法」は意欲的・革新的でした。そこではできなくて、いずれしたいと思っていたことを、今の学校で実践できているのは事実です。                                          (つづく)


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