【『逃げ上手の若君』全力応援!】(113)「知ったこっちゃなかった」尊氏の強い味方・佐々木道誉と赤松円心が掲げる「錦の御旗」、そして、古典『太平記』で確認する楠木正成VS足利直義・尊氏「湊川の戦い」
「うん これでもう朝敵じゃないな!」
「すっきり」な足利尊氏のコマに添えられた「知ったこっちゃなかった」のナレーションで思わず噴き出した『逃げ上手の若君』第113話。
古典『太平記』の足利尊氏が良い例なのですが、深く考えて行動していない印象がぬぐえないのは確かです。対する弟の直義は、かなり計算している感が伺えます。『逃げ上手の若君』においても、「宝探し」(第25話「神力1334」)のエピソードのように、まるで考えていない尊氏の方が考え抜く直義をひょいと飛び越えてしまうという……(足利兄弟に限らず、現実世界でもこうした現象は少なくないようですから、まったく世の中とは不思議なものです)。
物語はあくまで物語ですが、多くの物語は人物の特徴を先鋭的に純化します(わかりやすいキャラ作りをするのです)。よって、主要な登場人物に対しては、物語の作者や当時の人々のイメージや意図が大きく反映されているはずなので、「超絶面倒な時代」、つまり、南北朝時代の「到来」は、尊氏のこの「知ったこっちゃなかった」に始まったのは、案外事実なのかも知れません。
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「……はいっ 錦の御旗対策済み~~」
船上でニヤつく佐々木道誉と赤松円心ですが、「持明院統」に近づいて院宣を手に入れるよう尊氏に進言したのは、赤松円心だったのではないかということを何かで読んだ記憶があります(記憶違いの場合はご容赦ください)。
※院宣(いんぜん)…上皇または法皇の命令を受けて出される公文書。ここでは、「光厳上皇(持明院統)から官軍である許しを得た」文書のことを指す。
道誉と円心――この二人は、高師直とはまた違った意味で尊氏の強い味方であるのは間違いありません。対立する側から見れば、できれば敵にはしたくない(かといって、秩序や慣例を大事にしたい人、婆沙羅的な常識外れの言動が嫌いな人からすれば、味方にもしたくない…?)人たちだと思いました。
また、それによって帝から頂いたらしき「錦の御旗」ですが、義貞の掲げたものよりもパワーアップしているようですね。ーー義貞の旗には「|天照皇太神《あまてらすおおみかみ》」の名だけが記されていますが、尊氏軍の旗にはさらに「八幡大菩薩」の名も記されています。
前回登場した北畠顕家の父は親房と言いますが、彼の書いた『神皇正統記』には次のように書かれているそうです。
天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるること、いとたふとき御事なり。
※宗廟(そうびょう)…皇室の祖先をまつるみたまや。すなわち、伊勢神宮を敬っていう語。また、石清水八幡宮もこれに擬して第二宗廟とよび、あわせて「二所宗廟」ともいう。〔日本国語大辞典〕
錦の御旗の現物が残っていないので、実物がどのようなものかがわからず何とも言えないのですが、少なくとも『逃げ上手の若君』の中では、ビッグな神様の名前が二つ並んでいる〝尊氏の官軍〟の方が有利に見えてしまいます。これも、佐々木か赤松、あるいは二人の「対策済み~~」の一環かもしれませんね。
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「あーもう新田のアホ! 見え見えの分断策に!」
「あれでこそ新田殿だ弟よ 織り込み済みだ」
「錦の御旗が 二枚…!」という時の「!?」もなのですが、新田義貞が存分にやらかしてくれています。楠木正成の弟・正季は呆れ顔で困惑していますが、正成は落ち着いたものです。
実は先に関西に行って、北畠顕家や楠木正成のゆかりの地を訪ねたのですが、関西の方たちの正成に対する尊敬の念と郷土の偉人としての愛着は大変に強くて深いものがあり、正成が敗北したのはまさにこの義貞の軽率な判断と行動ゆえだという思いはぬぐえない方も少なくないようです。
ゆえに、その旅で出会ったお一人の方は、正成を「大楠(おおぐす)さん」と呼んでいらしたのに、義貞のことは〝湊川で一緒に戦った武将はなんて名前でしたっけ?〟と本気で忘れておいででしたし(高齢ではあったのですが…)、もうお一人の方は、〝私は南朝の武将はみんな好きだけれども、新田さんだけは楠木さんが死んでしまった原因を作ったので唯一好きになれないんです…〟と悲しそうに話してくれました。ーー新田好きの私にとっては大変な衝撃であったのと同時に、〝義貞のせいで本当にごめんなさい!〟と謝ってしまいました(涙)。
※「大楠(おおぐす)さん」…楠木正成には、「楠公(なんこう)」という敬称があります。さらに、正成を「大楠公(だいなんこう)」、正行を「小楠公(しょうなんこう)」と呼んだりもするそうです。その上で、私がお会いしたご高齢の地元の方は、正成に対して敬意とともに親しみをこめて、「おおぐす」という訓読みに「さん」で、「大楠(おおぐす)さん」と呼んでいらっしゃるのだと思いました。正成のことをそのように呼ぶ方の存在に、七百年を経ても色あせない正成の魅力と衰えを知らぬ人気ぶりを思い知らされたのでした。
これ以上、義貞に触れるのはいろいろな点で悲しくなりますので、次では正成の活躍を『太平記』で見てみたいと思います。
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左兵衛の兵、正成に追い靡けられて引き退くを、将軍、遥かに見給ひて、「大将の引くをば見ぬか。人々荒手を入れ替へて攻め返せかし。直義討たすな」と下知せられければ、…
※左兵衛…足利直義。
※追い靡けられて…追い散らされて。
※将軍…足利尊氏。
※荒手…新手。控えの新しい軍勢。
※下知…指図すること。命令。
上の引用は『太平記』からです。『逃げ上手の若君』では、「いかん直義が危ない!」と言って尊氏が血相を変えています(…何度目?)が、『太平記』でも「直義討たすな」と尊氏が周囲に命令しているのがわかります。
この引用の直前では、「菊水の旗」(「菊水」は楠木の紋なので、楠木軍)に出くわした直義が〝しめた!〟と思う場面があります。しかしながら、『太平記』の語り手は、直義が「大軍を率ゐる名将なれども、楠が勇猛に勝れねば」と評し、五十万騎を率いながらも、正成の七百騎に蹴散らされて撤退したのだと語ります。
それで、尊氏の「下知」があり、七千騎が新たに投入されました。その続きです。
楠兄弟、また色も替へず取つて返し、大勢の荒手に打つて懸かる。(中略)正成が兵、思ひ切つて懸け入り、馳せ合わすれば、懸け違ひ、馳せ開いては引き裹む。楠、いよいよ猛き心を振るひ、根機を尽くして、左に打つて懸かり、右に取つて返し、前を破り、後ろを払ふ。敵、あながち戦はんとはせねども、思ひ切つたる小勢なれば、抜け違ひ、懸け廻りければ、組んで落ち、切つて落とすも多かりけり。人馬の息を継がせず、三時ばかりぞ揉み合ひける。されば、その勢次第に減じて、わづかに七十騎にぞなりにける。
この勢にても、なほ打ち破つて落つべかりけるを、楠、京を出でしより、世間の事今はこれまでと思ひ切りければ、一足も引かんとはせず、なほも返し合はせ、所々にて手の限り闘つて、…(以下略)
※色も替へず…ひるむことなく。
※馳せ合わすれば…楠軍が駆け合わせると、駆け違い、軍勢を開いて包囲した((中略)の部分で、尊氏方の新手の者たちが、小勢になって気力だけで向かってくる正成たちに対して、攻撃はあえてせずに包囲して消耗させる作戦に出ようと申し合わせている)。
※根機を尽くして…気力の限りを尽くして。
※あながち…むやみに。
※三時…約六時間。今回は岩波文庫の『太平記』の本文を引用したが、古典文学全集の本文では、「三時ばかりの戦ひに、十六度まで揉み合ひたる」となっている。
「偽京の計」が、上記の本文にある「所々に手の限り闘つて」という内の一つであったかは、私にはわかりません。そうではありますが、正成とその郎党たちの戦いぶりは、先に見た頼重と郎党たちとの最後の戦いの激しさと重なるところがあるのを感じました。ーー決死の覚悟で狙うのは、ただ、一人。
〝尊氏、死んでるよねコレ。死んでないとしても瀕死でしょ?〟と思った私でしたが、砂の中から異形の装飾の付いた武器が出てきて、不自然に立ち上がる尊氏を見て、こういうのを〝絶望〟というのではないかと思わずにはいられませんでした。
もはや〝人外〟である尊氏とは対照的に、正成は「どんな顔」を我々に見せるのでしょうか。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕