党派性の技法(2016)
党派性の技法
Saven Satow
Jul. 18, 2016
The wind blew through my hair
Once I was young
I'd shelter from the sun
Once I was smart
We lived on the strength of our nerves
When we were young
David Sylvian “The Art of Parties”
巨大権力は腐敗すると18世紀初頭のイングランドの政治家ボリングブルック子爵は党党派性の意義を説いている。当時の理国は王党派のトーリーと議会派のホイッグが権力闘争を繰り広げている。ただ、名誉革命の後でもあり、後者が前者より概して優勢である。なお、子爵はトーリーに属する。
監視されることのない巨大な権力は私益に走り、腐敗する。初代ボリングブルック子爵ことヘンリー・シンジョンは『党派論』などにおいて反対党の必要性を強調する。反対党は公益を主張するカントリー・パーティー、すなわち愛国党である。
党派性は近代以前において否定的に捉えられている。党派性は対立や混乱を想起させ、国家を分裂に導くというわけだ。しかし、ボリングブルック子爵はこの通説に異議を申し立てる。巨大権力は暴走し、私益を追求する。これを抑制、公益を実現するためには党派性が必要である。力強い反対党の存在が政治を健全に機能させる。
宗教戦争の惨禍の教訓から、近代において政治の目的は平和の実現である。その際、政教分離が原則とされる。政治は公的、信仰は私的領域に属し、お互いに干渉してはならない。それは価値観の選択を個人に任せることを意味する。社会に個人が複数いるのだから、価値観の多様性が近代の前提である。
多様な価値観の諸個人は社会の組織化を通じて自らの主張を公共性・公益性と関連させて政治に反映させようとする。ここで党派性が求められる。そのため、近代政治は党派性を前提とする。
近代において党派性が対立のために金権政治に堕したり、混乱によって停滞を招いたりしたことは確かである。その状況に乗辟易した世論に乗じ、権威主義者が権力を握る。巨大な権力はブレーキを持たないから暴走し、ナチスや大政翼賛会のように、しばしば戦争に突っ走る。それは近代の政治の目的に反した帰結だ。
西洋で党派性の意義を見出したのはボリングブルック子爵が初めてではない。彼以前の肯定派としてニコロ・マキャベリが挙げられる。このイタリアの思想家は前近代と近代の二面性を持っている。彼は『戦略論』において貴族派と平民派の党派性が政治のダイナミズムとして機能したため、古代ローマは領土を拡張できたと説く。
貴族派の元老院と平民派の民会が相互牽制したため、権力の暴走を抑制して、選手、すなわち独裁者の出現を抑止したと従来から考えられている。マキャベリはそれを踏まえつつ、その党は関係を牽制のみならず、競争の機能も有したと分析する。両派が競い合って、領土を拡大し、ローマは発展したとする。
このマキャベリの党派性の認識は近代民主主義に引き継がれる。党派性は対立や混乱ではなく、相互牽制して権力の暴走を抑制し、競争によって政治のダイナミズムを生み出す。
ただし、マキャベリは党派性の機能の前提として二つの条件を付けている。一つは法の支配である。恣意的な統治は人々に不信と不満をもたらす。法に基づく平等な支配が人々に信頼感を抱かさせる。
もう一つは経済的平等である。格差が拡大すれば、人々は不満や不信を募らせる。国家が豊かになっても人々の生活は清貧が望ましい。この二つの条件が満たされないと、党派性は対立や混乱を増幅させてしまう。
党派性が近代政治の前提であるなら、拒否するのではなく、それを生かす試みが必要である。そのため、政党政治は代議制に組み込まれる。
他国に先駆けて政党政治の発達した英国の政治家や思想家は党派性に肯定的である。ただ、そのあるべき姿には二つの考えがある。一つは利害型で、デヴィッド・ヒュームがその代表である。『道徳政治論集』によると、党派はイデオロギーではなく、利益を共通する者たちが集まるべきだ。課題解決には、要求と譲歩の交渉が不可欠である。利害であれば交渉によって妥協も可能だが、イデオロギーでは難しい。従って、党派は利益に基づくべきである。
もう一つは理念型で、『フランス革命の省察』のエドマンド・バークが代表である。党派は自由主義や保守主義といった政治的思想に立脚して集まるべきである。彼は身分制に基づく相互牽制が権力の暴走を防いできたのが英国政治の伝統と捉える。議会は貴族の上院と庶民の下院に分かれ、権力の暴走を抑制している。理念の異なる党派性であれば、お互いに牽制するので、なれ合いの関係に陥らない。従って、党派は理念に基づくべきである。
党派性は利害や理念だけで論じられるわけではない。アメリカの第4代大統領ジェームズ・マディソンは、『ザ・フェデラリスト』第10論文において、連邦制に党派性の抑制機能を認める。合衆国の議員は国民代表ではなく、地域代表である。ある州で極端な過激主義者が支持されたとしよう。けれども、他の州がそれに批判的であれば、アメリカを支配することができない。州が相互に牽制してエキセントリックな思想の伸長を抑制する。
英米の思想家が党派性の意義を相互牽制に見ているのに対し、J・A・シュンペーターは競争と捉える。彼は、『資本主義・社会主義・民主主義』において、民主主義を党派の競争であるとし、選挙を有権者からのそれに対する反応と市場経済になぞらえている。党派性の競争が民主主義のダイナミズムである。言うまでもなく、競争である以上、独占は認められない。巨大な権力は競争を阻害し、民主主義の活力を奪う。
現代の党派性は大きな枠組みとしてイデオロギーや地域主義に基づいている。その上で、内部にそれらの理解のニュアンスの違いや利害によってグループに分かれている。だから、党派性はマクロとミクロの二重構造を持っている。
55年体制の自民党を例にしよう。自民党は革新と保守という大きな党派性において後者に属する。その内部は利害と理念が絡み合った複数の派閥に分かれ、牽制と競争を活力にしている。ただ、自民党はほぼ一貫して政権を担当してきたため、マクロよりミクロの党派性の方が作用している。
その好例が「40日抗争」である。40日間も派閥の牽制と競争によって総裁が決まらなかったが、党はそれをやれるだけのエネルギーを持っている。総裁選もやれない今の自民党はその意味ですでに死んでいる。安倍晋三首相は政治の生気を奪い続けている。
党派性は政党間だけで構成されるわけではない。民主主義は政党間のみならず、党内のいても働いていなければ、意思決定の正統性は怪しくなる。権威主義体制は組織化された政党が統治を担当、独裁者もその一員である。しかし、党内人事は指導者の意向によって左右され、民主主義的制度化が不十分である。だから、党派性は党内部においても派閥を始めとする諸集団として機能する必要がある。
近代民主主義は党派性を前提とする。それは党派性の相互牽制と競争によって健全に機能する。対立や混乱に見えても、党派性は政治の活力である。その抑制は政治の生命力の減退でしかない。巨大な権力が出現し、党派性が弱まった状況は安定ではない。政治腐敗である。
しかし、派閥政治の党派性は意義よりも、停滞や汚職の原因と見なされてしまう。党派性を監視やダイナミズムではなく、対立や混乱と辟易した結果、巨大な権力が誕生する。これこそが近代民主主義における政治腐敗である。政治にとって腐敗とは生命力を失った状態だ。今の日本政治がそうである。
〈了〉
参照文献
御厨貴他、『政治学へのいざない』、放送大学教育振興会、2016年
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