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紙と饗宴 ─ポストモダンとニュー・アカデミズム(9)(2004)

9 《オタク》について
 9・11以前、東浩紀を筆頭に、オタク文化がポストモダンであるという意見が唱えられている。だが、オタクはポストモダンを代表してはいない。なるほどオタク文化は今日決してマイナーというわけではなく、無視できないほどの産業規模を持っている。また、マニアックな知識や姿勢は、『なんとなく、クリスタル』が示しているように、ポストモダン文学の重要な要素である。田中康夫の註は部外者への説明のためにつけられている。しかし、オタク文化には、モダニズム同様、デスコミュニケーションがある。それは母の過剰、強すぎる母の支配に起因する。モダニズムは父の不在がアイロニカルに生み出しているが、オタクは父の存在の決定不能性、すなわちいるのかいないのかわからない状況に対するアイロニーである。ユーモアを欠いた攻撃性がそこにはある。「今日の所帯においては、子供達は騒いだり、物を壊したり、喧嘩したり、勉強をいやがったり、そんなことばかりに熱心であるが、そのおなじ子供達を[累進セクト]または[集団系列]に入れてやった場合、うるさくいわないでも競って仕事に精を出すようになり、よろこんで耕作や製造、学問や芸術を学ぶようになる。(略)父親たちがこの新秩序を見たら、自分の子供達がセクトの中では感心だが、不統一所帯のなかでは憎らしいと知るであろう」(シャルル・フーリエ『四運動の理論』)。ポストモダン文学は、田中康夫が少子高齢化を前提に作品を展開したように、母の過剰へのユーモアがある。ポストモダン的状況は意識的に過去のものを復活させてきたが、オタクは意識されていないモダニズムである。

 森毅は、『ぼけとモダニズム』において、「九〇年代と三〇年代とは、時代の変わりめという点で共通している」としながら、モダニズムを「ぼけ」であると次のように述べている。

 時代の流れとしては、三〇年代から社会が規格化される方向に進んで、それが破綻して多様性を模索しているのが九〇年代。そして、三〇年代はモダニズムの時代だったが、今ではピカソもジョイスも社会風俗に溶け込んでしまって、なにやらべったりしているところが皮肉。
 モダニズムでは、人間の意識の多様性を反映して、時間や空間が交錯し、名詞を持つ主体が変化した。(略)過去や未来の出来事が現在形で語られたり、ひとつの文章のなかで主語や場面が転回したり、会話と瞑想の境界がはっきりしなかったり。考えてみると、江戸浄瑠璃の文体もそれに似ていた。(略)
 ところがテレビで「ぼけの前兆」という番組を見ていると、これがすべて当てはまる。モダニズムというのは、ぼけのことであったのか。名詞が、とくに固有名詞が少なくなって、代名詞が多くなる。話の途中で主語が変わったり、現実に起きたことと頭で考えたことが交錯し、時間や空間は平気でワープする。規格によって解釈が一義化できない分、イメージの多様性に豊かさがある。

 ピカソやジョイスはポストモダニズムにとって極めて重要なアーキタイプである。彼らは、反逆を試みたがゆえに、伝統を熟知している。また、戦前に内務省の検閲が始まる前の日本製の輸出用時代劇映画は、高橋留美子のマンガに出てくるようなハチャメチャさで日本を描いている。クエンティン・タランティーノが見たら、泣いて喜ぶことだろう。ポストモダニズムはモダニズムのパロディであり、大衆化である。けれども、それが見失われている状態である以上、浅田彰はあえてモダンの導入を訴えている。それはポストモダンへの解毒、ポストモダン自身の相対化である。「精神をどれほど純化しても、バクテリアは防げない。(略)ゆえに、テレビに抗うには、活字などの関連するメディアを解毒剤として摂取しなくてはならない」(マクルーハン『メディアの理解』)。

「打った!入った!同点!3対1!1点勝ち越し! 長島一茂がプロ入り2本目のホームラン!」
(菅野”ミスター・ヴォルテージ”詩朗)

 ポストモダンは階層化された差異を並列化し、それをクロスオーバーさせる。ポストモダン思想はもはや新しいものはないと過去を引用するが、これも同様である。ジェレミー・ベンサムは高尚な行為だろうと低俗であろうと得られる快楽という点では同じだと主張している。すべてが「フラット化する」状況などは功利主義からすれば、当然の見解である。ところが、オタクは流動化した差異を固定化させている。固定化された差異を細分化させ、それらは互いに干渉しない。オタクは、功利主義の快楽平等説と違って、自身の快楽によってヒエラルキーを構築する。オタクは既存のヒエラルキーの方向性を逆にし、ポストモダニズムが実践していた「共生」の倫理に欠けている。「世間とのかかわりから言えば、もう少しはオタクの自覚を持ってよい。世界を閉じていることを自覚しただけで、その世界が軽やかに見えてくるじゃないか」(森毅『オタクの世界』)。

 オタクのクロスオーバーがポストモダンでは求められる。オタクのクエンティン・タランティーノは蓄積してきたデータをクロスオーバーさせ、『パルプ・フィクション(Pulp Fiction)』(1994という素晴らしいポストモダニズム作品を製作している。また、同じ年にティム・バートンが監督した『エド・ウッド(Ed Wood)』というまさにオタク映画が傑作となりえている。「まさに近ごろの傑作である。生涯一作も当たらぬという監督と彼が主役に選んだ二流スタアのベラ・ルゴシのスケッチ。映画のすべてが二流ムード。一九九四年の新品映画がモノクロで一九五〇年代の二流スタイル画面で統一という念の入った面白さ。しかし映画は二流どころか、『シザーハンズ』『ギルバート・グレイプ』のジョニー・デップを主演に『シザーハンズ』のティム・バートン監督」(淀川長治『淀川長治の銀幕旅行』)。「エド・ウッド映画史上最低の映画監督である。『プラン9・フロム・アウタースペース』は史上最低の映画として万人の認めるところになっている。これは地球人に戦争を止めさせようとしてやってきた宇宙の支配者が、大統領と面会できなかったので墓場からゾンビを甦らせて地球を征服しようとする侵略SF映画である。理解不能なプロット、学芸会並の演技、ボール紙で作ったようなセット、間抜けなセリフ。すべての要素が揃ったおかげで、つまらなさを通り越してほとんど芸術のようにシュールな作品ができあがってしまった。誰にも真似られない唯一無二の--傑作かどうかはともかく--他に類を見ない映画なのである。彼の生涯はティム・バートンの手によって『エド・ウッド』として映画化されている。しかしこの映画は真実の半分しか伝えていない。映画は『プラン9』完成とともに終わるのだが、その後のエド・ウッドの人生は悲惨の一語に尽きた。作った映画は売れず、さらにはまともに金を集めることもできなくなり、ポルノ小説を書き飛ばして糊口をしのぎ、友人のポルノ映画に脚本を書き、それでも食っていくのがやっとだった。やがてアルコールに溺れ、家賃も払えなくなって極貧の中で死ぬ。晩年の彼はひどく陰気になり、苦々しくこぼすことが多かったという」(柳下毅一郎『オレにやらせろ』)。

 そもそも東浩紀がオタク文化としてあげているポストモダンの特徴はアニメーションの特性である。CGと実写で表現できる世界を自意識の優位性のためにアニメで描いているようなものだ。実写はカメラを用いるため、どこかに焦点を合わせなければならないのに対して、アニメはカメラの制約から解き放たれている。カメラはあくまでも「見えるもの」を映すにすぎない。フレームの外には別の世界あるいはその全体性がある。同一の画面の中で一本の木と一人の人間を描こうとした場合、実写では焦点の都合上、どちらかを主にせざるを得ないが、アニメにおいては、「スーパーフラット」であるため、両方を主にできる。アニメは、カメラの遠近法に縛られず、どこまでも平面的な視覚を提供する。ジョージ・ルーカスがロン・ハワードに「アニメーションは俳優が邪魔をしない」と言ったように、役者の演義という曖昧なものを排除し、世界を平面に分割して、時空間を自由に扱え、寓話的なリアルさを観客に訴える。「シュミラークルの全面化」(ジャン・ボードリヤール)であるアニメは、物語性が希薄であるなら、すべてが主役であり、同時に主役が不在の世界を描ける。

 実写はどんなに平面的たらんとしても、カメラの遠近法が作用しているため、観客に立体性・実存性を思い起こさせてしまう。ところが、物語性を強くしようとすると、その遠近法の欠落さにより、アニメは展開をセリフに依存せざるをえない。ウォルト・ディズニーのアニメでキャラクターがセリフを喋らせたように、何かを主にするため、セリフがその記号の機能を果たす。「なにもかもが『見えるもの』から『わかるもの』になってしまったのです」(小栗康平『映画を見る眼』)。東が強調するキャラクターへの偏愛はここから生まれたにすぎない。キャラクターとセリフへの傾倒はアニメをラジオ・ドラマとしてそのまま使えるようにさせてしまう。この背景の下、声優が脚光を浴びる。

 それでいて、大部分の日本のアニメは映像的には極めて保守的であり、アニメで描写する必要性は皆無になってしまい、自己完結性だけが強まっている。「カメラが入るポジション、見せ方は、オーソドックスで、落ち着きのいい実写のそれとなんら変わっていません。実写の映画のセオリーをそのまま引き継いでいます。動植物が人間の言葉を喋ることで人間化しているとしたら、どんなお化けであろうが、これは人間ドラマです。さまざまに工夫された絵柄によって、ファンタジーであることから目を覚まさせない、人間のセリフ劇です」(『映画を見る眼』)。アニメ的映像を賞賛するなら、アニメが盛んな「日本的スノビズム」(アレクサンドル・コジューヴ)を評価するのは必然的である。けれども、ポストモダン的「スーパーフラット」をアニメーションに求めて、マイナー志向のために、特定のキャラクターに焦点をあわせるとしたら、それは背理であろう。

 オタクの持つマイナー=マージナル志向とメジャー=センターの忌避にとどまることなく、フラクタルに向かうクロスオーバー、オタク文化のパロディがポストモダンに値する。「二十歳前後の浅田というのは、本人が言っていましたが、オールラウンド・オタクみたいなところがありました。映画を話すときは映画オタクと話をし、文学のことになると文学オタクと話をし、思想の話をするときには哲学オタクと話をする。そして彼は、みんなそれぞれに専門化していて気に入らないと言っていました。そういう意味では、彼は原理的にクロスオーバーです。それにしては、この頃はちょっとカッコつける面が出ているようです。これから彼がどうなるかは別です。(略)浅田は二十代のときは若さが愛嬌だったけれど、もう三十代も後半ですし、ちょっとシンドイでしょう。やはり四十代をどういう芸風でやるかというのが彼の課題です」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。

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