笑蝉記(9)(2021)
9 現代における孤独
近代において隠者の生き方は一つの価値観いすぎない。それを誰もが支持する必要はない。隠れて生きることは選択肢の一つで、隠者は主体的にそうしている。しかし、現代ではその選択の自由が奪われ、社会から切り離された生活に陥ることも少なくない。そうした「孤独・孤立」は社会問題化している。パンデミックがそれをさらに悪化させている。
『共同通信』2021年3月16日16時47分更新「『孤独・孤立』NPOを支援へ 自殺防止や公営住宅貸出」はパンデミックによる「孤独・孤立」の対策に政府が乗り出すと次のように伝えている。
政府は16日、生活困窮者ら向けにまとめた緊急支援策に、新型コロナウイルス禍で深刻化する孤独や孤立問題への対策を盛り込んだ。自殺防止に取り組むNPO法人への財政支援や公営住宅の貸し出しなどに60億円を充てる。菅政権が打ち出した孤独・孤立への取り組みを巡り本格的な支援策をまとめたのは初めて。ただ「民間頼み」の補助事業が多く、実効性は不透明だ。
支援策では、女性や子どもの自殺が増加していることを受け、自殺防止に取り組むNPO法人に助成する。電話や会員制交流サイト(SNS)での相談体制強化や、相談員の養成に充てる。困窮子育て世帯への給付金も盛り込まれた。
前近代は共同体主義である。「村八分」によって共同体が構成員を排斥することがあっても、二分、すなわち葬式と火事には参加が許される。それまで排除すると、村にとって不利益になるからだ。孤独に暮らす場合、共同体の規範に基づいているならば隠者として敬意を払われるが、そうでないと白眼視される。
前近代の孤独な生活が倫理的評価基準に則っているのに対し、近代のそれは政治的・経済的・社会的理由から排除されていることが少なくない。近代は個人主義である。移動を始めさまざまな自由が認められている。共同体主義の時代であれば、嫌でもつきあわなければならない人間関係ばかりだったが、気の合う者同士だけで固まることができる。反面、孤立も生じやすい。関係という資源にアクセスできなければ、望まなくてもそこから排除されてしまう。
パンデミックは既存の諸課題を増幅して顕在化させている。「孤独・孤立」も同様である。この問題は日本に限ったものではない。『BBC』2018年1月18日更新「英政府、「孤独担当大臣」新設 殺害された議員の仕事継続」は英国政府が担当大臣を置いたと次のように報じている。
クラウチ新大臣は、英国で年齢を問わず約900万人が影響を受ける「この時代の課題」に超党派で取り組むことを、誇りに思うと述べた。
コックス議員は、「孤独は若者も老人も差別せずに苦しめる」と、「孤独委員会」を発足させた。議員は2016年6月、欧州連合(EU)離脱をめぐる国民投票の直前に、極右思想の男性によって殺害された。
同委員会の2017年報告は、「孤独は1日たばこを15本吸うと同じくらい、健康に害を与える」と指摘している。
テリーザ・メイ英首相は文書で、「ジョー・コックスはこの国に広がる孤独の問題の規模を認識し、影響を受ける人たちのために全力を尽くした」と述べた。新しい担当大臣はコックス議員の功績を継承し、孤独委員会や経済界、慈善団体と協力しながら、政府としての戦略を策定するのが役割だという。
国家統計局(ONS)が、孤独を指標化する方法を編み出すことになる。また英政府は、対策のための基金を設立するという。
歴史的に見て、隠者のように隠れて住むことは倫理的な理想像の一つである。ただ、今日それとは違う「引きこもり」を含め「社会的排除」が社会問題化している。「不登校」同様に誤解されがちだが、「引きこもり」は自ら望んで隠れて暮らしているわけではない。それも社会的排除の一つだ。これは政治的・経済的・社会的資源へのアクセス権が阻害されていることである。彼らは、能動的にではなく、受動的に諸関係から切り離される。隠者が倫理的に理想の生活を追求するのと違い、非社会的なそれに苦しめられる。自己並びに置かれた状況に苛む。隠者には自己決定権があるが、社会的排除にはない。自立とは自己決定権のことである。自己決定できる状況を回復させることが「包摂」であり、「排除」と対概念として社会的に重要になり、記事が示す通り、政治問題と位置づけられている。
「社会的排除」は貧困と関連している。怠惰や搾取といった従来の捉え方ではこの問題がうまく把握できない。実際には原因と結果の因果関係が無明確で、関連構造を明らかにすることが社会学より提示される。それが「社会的排除」のアイデアである。
学問研究には方法の学問と対称の学問がある。前者は独自の方法を持ち、それを用いて対象を拡張していくもので、社会学や心理学、人類学が代表例である。後者は対象の範囲が明確であるため、さまざまな方法を導入していくもので、文学や教育学、政治学が代表例である。
こうした包摂には科学技術も一役買っている。浅田晃弘記者は、『東京新聞』2021年2月18日 07時10分更新「重度障害者らが自宅にいながら接客スタッフに 『分身ロボットカフェ』日本橋に開店へ」において、そういった例について次のように伝えている。
重度障害者らが自宅から「分身ロボット」を操作して、接客スタッフとなるカフェが六月、中央区の日本橋エリアに開店する。外出が困難なため、就職をあきらめていた人たちを支援する。エンジニアも常駐し、実際の接客で分かった課題を集めてロボットの改良につなげる研究拠点にもする。 (浅田晃弘)
ロボット開発ベンチャー「オリィ研究所」(港区)が手掛ける「分身ロボットカフェ DAWN ver・β」は、据え置き型の高さ二十センチの「OriHime(オリヒメ)」と、高さ百二十センチで走行ができる「OriHime−D」が接客をする。
テーブルの上で「OriHime」がオーダーを取り、「OriHime−D」がメニューを運ぶ。いずれも額のカメラが撮影した動画を、離れた場所にある端末へと届ける。障害者は端末を操作し、ロボットを動かす。マイクによる会話もできる。声が出せない人はスイッチや視線で文字盤を指して言葉を発する。
オリィは二〇一八年から昨年一月まで、虎ノ門や大手町、渋谷で四回にわたり、期間限定の「分身ロボットカフェ」を開いた。計約四十日の営業期間中、延べ五千人が来場した。
筋肉が少しずつ動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)や脊髄性筋萎縮症(SMA)など難病患者のほか、海外に住む日本人女性も分身ロボットを使い、接客を務めた。この女性は日本で働きたいという強い希望を持ちながら「距離」を理由にあきらめていた。オリィは、これを「距離障害」と呼んでいる。
分身ロボットカフェで接客技術を磨き、企業への就職に成功する参加者も生まれた。手応えを感じたオリィは昨年夏、分身ロボットを使ったテレワークの人材紹介サービス「AVATAR GUILD(アバターギルド)」を始めた。自治体からの問い合わせが増えているという。
オリィ広報担当の浜口敬子さんは「新型コロナで誰もが外出困難者となり、オンラインでの会話や出会いの機会が増えている。カフェの取り組みから、社会とつながるための新しい方法を広めていきたい」と話している。
「分身ロボット」はAIではない。遠隔操作するロボットである。その操作者は隠れて住まざるを得ないが、社会から排除されていない。包摂にはいろいろな方法があるものだ。それは現代の隠者の多種多様なあり方を示唆する。
隠者の暮らしは貧困では持続が可能ではない。吉田兼好は『徒然草』第123段において人間が一人で生きていく際に衣食住、さらに誰しも病気や怪我をするのだから「薬」、すなわち医療が不可欠だと述べている。倫理は抽象的であるが、生活は具体的である。隠遁生活は衣食住薬が不足していては持続できない。そうした貧しさを豊かだと倒錯することが隠者の生き方ではない。兼好によれば、この暮らしは強欲を拒否することで豊かである。強欲に囚われない持続可能な生き方が隠者のそれである。
確かに、現代の隠者の倫理は人間中心主義批判を含んでいる。けれども、それは近代文明の全否定ではない。隠者は、近代において、自らアクセス権を最小限に行使して自立を実践する。意思決定が自分に属しており、新な幸福を目指して利用の塩梅を決められる。アクセス権がないとしたら、意思決定が自分でなされない以上、幸福も難しい。持続可能な開発、すなわち足るを知ること前提に、科学技術を利用する。
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