コギトイド─ルネ・デカルト(1)(2003)
cogitoid
─ルネ・デカルト
Saven Satow
Oct. 31, 2003
“I have to believe in the world outside my own mind. I have to believe that my actions still have meaning, even if I can’t remember them. I have to believe that when my eyes are closed, the world’s still there. But do I? Do I believe the world’s still there? Is it still out there?! Yes. We all need mirrors to remind ourselves who we are. I’m no different. Now... where was I?”
Leonard Shelby “Memento”
この序説が長すぎて、一気に読み通せないようなら、六部に分けてもかまわない。第一部では、デカルトの渦動説に関するさまざまな考察が書いてある。第二部には、著者が求めた方法の基本的な原理が示されるだろう。第三部においては、この方法から導かれるデカルトの二元論を記している。第四部には、著者が神と単位eの存在を証明する際の根拠、すなわち著者の形而上学の基盤が示されている。第五部には、著者が検討した時計じかけのコギトに言及している。最後の第六部では、著者がデカルトの探求においてさらに必要と考えるものは何であるか、ならびに著者が本書を書こうと思った理由を説明している。
cogito bud…
第一部 Does the Flap of a cogito’s Wings in Amsterdam set off Tornadoes in the World?
デカルトは非線形の哲学者でもある。
Your coat and hat are gone
I really can't look at your little empty shelf
A ragged teddy bear
It feels like we never had a chance
Don't look me in the eye
We lay in each others arms
But the room is just an empty space
I guess we lived it out
Something in the air
We smiled too fast
then can't think of a thing to say
Lived with the best times
Left with the worst
I've danced with you too long
Nothing left to say
Let's take what we can
I know you hold your head up high
We've raced for the last time
A place of no return
And there's something in the air
Something in my eye
I've danced with you too long
Something in the air
Something in my eye
Abracadoo - I lose you
We can't avoid the clash
The big mistake
Now we're gonna pay and pay
The sentence of our lives
Can't believe I'm asking you to go
We used what we could
To get the things we want
But we lost each other on the way
I guess you know I never wanted
anyone more than you
Lived all our best times
Left with the worst
I've danced with you to long
Say what you will
But there's something in the air
Raced for the last time
Well I know you hold your head up high
There's nothing we have to say
There's nothing in my eyes
But there's something in the air
Something in my eye
I've danced with you too long
There's something I have to say
There's something in the air
Something in my eye
I've danced with you too long
(David Bowie “Something in the Air”)
ルネ・デカルトは空間に渦を満たした世界観を提示している。「デカルトというと、方法論が明晰で、概念を割りきるところが特徴だ。彼の哲学は『物心二元論』と言われるが、形而上の心の世界のほうで〈自己〉、今流に言えばアイデンティティを基本とし、形而下の物の世界では〈外延〉、つまりは『ひろがり』を基本にした、という程度のことだろう。これは、ひろがった〈空間〉に枠をしつらえた、彼の世界像によく見合っている。もっとも、枠だけでカラッポの空間というのは、デカルト自身には気持ち悪かったらしく、そこになにやら渦のようなものがぎっしりと詰まっている、と考えた」(森毅『魔術から数学へ』)。アイザック・ニュートンが空虚な空間という線形の世界により宇宙を示そうとしたのに対し、デカルトは渦動説によって世界を非線形として把握したと考えるべきである。「想像力が物体的なものを表わすのに図形を用いるのと同じように、悟性は精神的なものをかたどるのに、ある種の感覚的物体を用いる。例えば、風や光を」(デカルト『思索私記』)。
デカルトは、『哲学原理』の中で、宇宙と物体の落下について次のように述べている。
宇宙空間はエーテル粒子で充満しており、エーテル、火、土の3元素によって世界が構成されている。宇宙では恒星を中心にしたエーテルの渦巻きがあり、これによって、水上に浮かぶ木片のように太陽のまわりを動かされている。よって、これが惑星は太陽のまわりを、すべて同じ方向に、ほぼ同一平面内で回り続ける原因である。
すべての恒星が同一の天球上にあるのではなく、どの恒星も自分のまわりに、他の恒星の含まれていない広大な空間をもっており、そこでは、恒星を中心としてエーテルの渦が回っている。すべての遊星(惑星など)は太陽のまわりをエーテルの渦によって運ばれている。その運動は完全な円形ではなく、常に惑星は太陽から等しい距離にあるわけではなく、遠日点、近日点がある。月の軌道は楕円である。彗星は天体であり、土星より遠方にある。
また、地球上において物体が落下する現象は、物体が地球の自転によってエーテルが地球の中心へ向かって押し下げられるためである。
デカルトは運動一般をエーテル、すなわち充満物質の中での粒子間の近接作用によって記述する。真空でも物体が動くというガリレオ・ガリレイの説には否定的であり、落下の加速運動にも好意的ではない。デカルトによれば、真空など存在せず、空間はエーテルで満たされ、無限である。と言うのも、虚無には延長がありえないからである。地上界と天上界の区別はなく、宇宙の行う運動は渦運動のみであって、渦運動の過程で今の宇宙が生成されたのである。さらに、渦動説に基づくその宇宙生成論によって、天文現象の因果的説明をしている。「運動」は、『哲学原理』によると、「場所の移動」であり、空間も延長である以上、物体にほかならない。運動は「物質の一部分あるいは一つの物体が、それと直接接触し、かつ静止していると見なされる物体の傍から、他のいずれかの物体の側に移動すること」である。地球はそれを取り巻く物質の渦運動によって自転しているのだから、地球はつねに静止しているのであり、運動しない。惑星は宇宙空間を満たしているエーテルの渦巻きによって、水上に浮かぶ木片のように太陽から動かされている。惑星は、太陽の周りをすべて同じ方向に、ほぼ同一平面内で回り続ける。「宇宙は無限の広さをもっており、真空という空間は存在しない。また、天空の物質と地上の物質とは同一のものである物質はどこまでも分割が可能で、原子というものは存在しえない」。
デカルトは、オランダのドルトレヒト大学の学長イサク・ベークマンと共同で落体の実験を行う。「一六〇四年のガリレイの落体の(謝った)運動方程式以来の理念を引き継いだのは、オランダの数学者ベークマンから力学を教わったデカルトだった。もっとも例によってデカルトは、自分の出した正しい結果まで誤って引用する始末だが、落下速度が落下時間に比例しようと、落下距離に比例しようと、あるいは一定であろうとも、とにかくこの種の〈変化の法則性〉を整合性において理解しようと試みたところに、デカルト的な特質がある」(森毅『数学の歴史』)。当時のオランダは、デカルトが亡命したように、最も経済力をつけ、自然科学においても、最も進歩的な国である。渦動説は、リベラルな雰囲気の中、こういった実験・研究の後に、デカルトらしくいささかおっちょこちょいに、考案されている。彼は中世的な線形のコスモスが崩壊して、混沌とした非線形のカオスの時代に生き、その思想を語る。
デカルトは、『方法序説』において、亡命先のオランダでの生活について次のように書いている。
ここで私は、他人のことに興味を持つよりは自分の仕事に熱心な、極めて活動的な多数の人々の群の中で、最も人口の多い町で得られる生活の便宜を何一つ欠くことなく、しかも最も遠い荒野にいると同様、孤独で隠れた生活を送ることができたのである。
後の自然科学者に与えたデカルトの功績は大きい。デカルトの企ては、いかなる領域であろうとも、概念を独立させることである。時間と空間を独立させる。ニュートンは、その上で、空虚な空間に空虚な時間を付け加えて、運動を展開する。ニュートンの運動の三法則は、デカルトの思想を叩き台にして築かれている。慣性・運動量の保存・運動の直進性が含まれ、さらに個々の自然現象をできるだけ少ない法則で表わし、そこからさまざまな現象を説明しようと試みているからである。デカルトは、『哲学原理』の中で、力と距離との積を「仕事」としている。「運動および静止は、物体の相異なった様態であるにすぎぬ」と言い、相対的な運動の考え方をとっている。これは後に、光粒説のニュートンに対抗して、光の波動説を唱えたクリスティアン・ホイヘンスに強く受け継がれる。
光学の研究においても、デカルトは、入射角と反射角は等しいという反射の基本的法則を発見している。また、「神は運動の第一原因であり、宇宙のうちにつねに同一の運動量を保存する」と言って、「運動量保存則」を考案し、「いかなるものも、できるかぎり、つねに同じ状態を固持する。いったん動かされたものはいつまでも運動し続ける」のであって、「すべての運動はそれ自身としては直線運動である」と言っている。これらは後にニュートンの運動の第一法則に発展する。
また、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは、「空虚な空間」というニュートンの説に反論して、空間は別々に存在する物体の集合の配列であって、相対的なものであると考えている。これは、決して、デカルトからそう遠くない。ニュートン対反ニュートンの論争のいずれの側もデカルトに由来している。
エーテルが宇宙に充満している暗黒物質(ダーク・マター)であるとすれば興味深いが、デカルトの渦動説は、確かに、宇宙論としては現在否定されている。けれども、気象学の点では、重要な認識を示し、それは巨大な転倒を秘めている。デカルトの渦は乱流である。乱流は、定常な層流と違い、非定常であり、複雑である。水道の蛇口から流れる水の量が少ない場合に見られる状態が層流であり、多い場合に生じる現象が乱流である。乱流と層流はレイノルズ定数によって決まる。デカルトの渦動説は非線形現象を把握する試みであり、それはデカルトの思想が線形だけではなく、非線形でもあることを明らかにしている。