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脱原発と官邸デモ(2012)

脱原発と官邸デモ
Saven Satow
Aug. 31, 2012

“We shall overcome”.

 近頃、官邸デモの分析を目にする。けれども、それらは脱原発との関連が必ずしも中心ではなく、概して、デモの方に関心がある。中には、全体主義的動員のデモと比較して論じていたり、デモ参加を通じて意識変化が促進され、社会変革につながると主張したりするものも見受けられる。

 しかし、脱原発の問題だからこそ官邸デモが起きたのであって、それを見据えない分析は本質的ではない。あくまで脱原発というシングル・イシューへのアドホックな集合が官邸デモである。

 官邸デモにTPPも加えるべきだという主張がツイッターでも流れているが、同調する声は大きくない。むしろ、それを入れることで、デモの勢力の縮小ないし分裂が生まれる危惧が多くの参加者に感じられる。

 確かに、デモを促し、広がりを持つ問題というものがある。アメリカの歴史で言うと、公民権運動や反戦運動は広く支持されたが、その後の女性解放運動は、残念ながら、デモの盛り上がりを欠いている。ある要件を備えた問題だけが効果的なデモをもたらす。

 まず、怒りを共有できる問題でなければならない。共有できる憤りがなければ、動員を別にして、人は他人と一緒に街頭に繰り出さない。

 次に、怒りの対象が明確だという点も重要である。憤りの矛先がはっきりしていなければ、方向性のある集団行動になり得ない。

 また、利害対立が非常に少ないことも必要だ。直接民主主義には、理念を共有しつつ、錯綜する意見の相違を熟議を通してコンセンサスに達する可能性がある。しかし、市場とは違い、対立する利害の調整を機能的に行うことは難しい。デモは大人数での圧力に効果がある。利害対立が大きい問題では、参加・支持層が限られてしまう。

 さらに、意見表明の手立てが閉ざされていることも要る。選挙がない、あるいは不正が横行している権威主義体制は容易にこの点が理解できるだろう。民主主義国家では投票行動によって意見表明が保障されている。しかし、自分の選挙区にその問題に応える立候補者がいない場合、あるいは応えることを訴えているけれども、他の政策が自分の考えと違う場合、事実上投票行動は自らの意に沿わないものになってしまう。其れで黙っていたら、我慢できる程度のことだと為政者に思われかねない。

 3・11後の脱原発はこの要件をすべて満たしている。

 フクシマが現在進行形であるのに、それをなかったことのようにする動きが体制側で進んでいる。しかも、有力マスメディアの中にも同調傾向が認められる。しかし、事故が発生すればどうなるかはフクシマの惨状を見ればわかる。また、現場から離れていても、放射性物質は忍び寄り、放射線はDNAの複製といった生命活動に直接影響を及ぼす。そうした危険性よりも目先の経済性を優先することは納得できない。

 原発の再稼働やエネルギー政策の最終決定をするのは政府である。「敵は官邸にあり」と参加者・賛同者は意識共有ができる。

 原発によって地域や組織、個人が利益を得ていたとしても、一旦事故が起きれば、その被害は広範囲かつ長期間に及び、そんなもの吹っ飛んでしまう。しかも、省エネ技術の成長や代替エネルギーの開発など原発に依存しない方策もすでに見えている。原発に固執する理由は多くの市民にはない。

 選挙区の候補者が原発容認派や推進派だけでは、自分の1票の行き場がない。また、いくら脱原発を唱えているからと言って、保守派は共産党に投票したくないだろうし、護憲派も改憲派のそれを当選させたいとは思わないだろう。

 なお、罵倒や非難が少なく、解放感があるなど今回の官邸デモに娯楽性が認められるが、そうした政治活動は決して珍しい光景ではない。日本でも東京レズビアン&ゲイパレードがそういった雰囲気を持っていることは知られている。しかも、これは最近に限った現象ではない。古くは、明治初期に盛んだった演説会は、政治思想の啓蒙や意見主張の場であるだけでなしに、講談も行われるなど娯楽性も高く、それが集客にもつながっている。

 このように、脱原発はデモを促し、広がりを持てる問題である。

 けれども、官邸デモが完全に新しいタイプというわけではない。沖縄では、米軍基地問題をめぐってP2Pモデルのデモがすでに頻繁に起きているからである。官邸デモに新しさを見出す人たちはこれを忘れている。

 しかも、そうしたデモが政府の政策変更に必ずしもつながってはいない。しかし、県民は粘り強くデモを続けている。社会を変えたい動機もあるだろう。ただ、それ以上に自分たちだけでなく、子や孫の世代のためにも決して泣き寝入りはしないという強い思いに促されている。米軍基地は、沖縄にとって、安全保障と言うよりも、犯罪や公害、事故など生活・生命を脅かす問題だからである。安全保障の名の下に、住民の生命の安全が軽んじられているのはまったくの矛盾ではないかと県民は憤っている。

 官邸デモは、憤怒の差があるとしても、こうした沖縄モデルに属している。数ある政治課題の中で脱原発だけが官邸デモにまで至ったのは、それが現在・将来世代の生命への不安にかかわっているからである。フクシマの際の最も印象的なフレーズが「ただちに健康に影響が出るものではない」等だったことを思い起こそう。官邸デモは、言わば、「生命のデモ(Bio-demonstrations)」だ。現在・将来世代の生命を二の次にするような政策に対して抵抗し、持続可能性のある社会を目指している。

 官邸デモをデモの観点から考えることはその固有性を見逃すことになる。むしろ、現代における不安の一つが生命にかかわっていることを認識し、そこからこの活動を捉えるべきだ。生命をめぐる不安への眼差しなくしてもはや政治・経済・社会のシステムはあり得ない。官邸デモが伝えているのはそうした主張であり、そんな新しい世界を協創しようとする意欲である。
〈了〉

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