パプリック・モノローグ公的独白-Twitter(2009)
パブリック・モノローグ/公的独白
─Twitter
Saven Satow
Feb, 28. 2009
All's over, then; does truth sound bitter
As one at first believes?
Hark, 'tis the sparrows' good-night twitter
About your cottage eaves!
Robert Browning The Lost Mistress
2009年2月24日夜、バラク・オバマ米大統領は、上下両院の合同会議において、施政方針演説をおこなっている。全米に生中継されたこの演説に対する議場の雰囲気を真っ先に世界に伝えたのは、もはやブログではない。Twitterである。
これだけではない。2008年11月26日から29日まで続いたムンバイ同時多発テロや2009年1月15日に起きたハドソン川の奇跡の第一報を伝えたのも、2006年7月に開始したばかりのこのサーヴィスである。速報性という点では、おそらく、Twitterが今は最高だろう。
こうした速報にジャーナリストが驚いたのも当然であろう。『ニューヨーク・タイムズ』紙やABCといった大手のマスメディアがTwitterをとりあげる。デミ・ムーアやアシュトン・カッチャーといったセレブもユーザーであるだけでなく、バラク・オバマ大統領もアカウントを持っていると明らかにしている。
2008年9月11日、『9・11~アメリカを変えた102分~(102 Minutes That Changed America)』というドキュメンタリーがヒストリー・チャンネルで放映されている。通常のドキュメンタリーは、あれはなんだったのかと事後に取材・調査を行って構成されるが、そうした外部の視点に立っていない。
一般の市民が撮影したビデオやニューヨーク市警察や消防署、港湾局や救急隊員の無線でのやり取り、監視カメラ映像、テレビ局がカットした映像などを時系列でつないだ102分間のドキュメンタリーだ。今何が起きているのかわからないまま、事件の真っ只中で思い、行動する人々の姿がある。
Twitterはこうしたリアル・タイム・ドキュメンタリーを体現し、検索機能を用いれば、体感することができる。ある出来事に遭遇したとき、どの時点で、どういう人が、どれだけのことを理解していたかを調べられる。未整理な分だけ、生々しい。重要な歴史の史料となり得る。
アメリカの議員の中には、Twitterを後援者とのコミュニケーションに利用している人もいる。一方、麻生太郎首相は、ことあるごとに、アキハバラで演説を繰り返しているが。ケータイ・メールを使っているくらいで、Twitterはおろか、You Tubeさえ政治活動に活用していない。
アメリカでは、既存メディアも即時性の必要な簡単なアンケートの際に、Twitterを使っている。日本では、その認知度を考慮すれば、当然かもしれないが、ニュース等でとりあげることさえまだない。
インターネットの登場以来、独創的なアイデアに基づく数々のオンライン・サーヴィスが誕生している。Amazon、eBay、Google、Wikipedia、Digg、You Tube、My Space、Facebookなどは社会を変え、またネット自身も変容させている。そこに、Twitterが新規参入する。
英語で、「小鳥のさえずり」や「だらだらとしたおしゃべり」を意味するTwitterの認知度は日本はもちろん、アメリカでさえまだ高いとは言えない。しかも、他愛もないことをするためのツールであるにもかかわらず、「それって、いったいなに?」と尋ねられても、説明するのに窮する。
Twitterは無料のサーヴィスであるが、利用するには簡単な会員登録が要る。PCや携帯電話からTwitterのウェブにアクセスし、パスワードとIDを入力してログインする。ここまでは、電子メールやチャット、ブログ、SNSなど多くのオンライン・サーヴィスと違いはない。
ユーザーは自分専用のサイトを開き、「いまなにしてる?(What are you doing?)」の質問に対して、独り言を投稿する。ただし、一度に送信できる文字数が最大140字までに制限されている。そのつぶやきそれぞれに固有のURLが割り当てられ、アーカイヴされる。
さらに、ホームの画面には前もってフォロー登録した人の投稿も、ほぼリアルタイムに表示され、書き込みもできる。その他にも、各種の拡張機能が用意されている。困ったときは、ヘルプをクリックし、使用法に関する説明用の動画を見ればよい。
退屈に耐えられなくなったティーンエージャーが友達に、「いまなにしてる?」とケータイ・メールを送るなんてことはよくあるものだ。それをオンライン・サーヴィスにしたと思えばよい。しかし、この暇つぶしツールは好評で、Wassrを始めとする類似サーヴィスも登場しているほどである。
こうした新たな投稿サーヴィスを総称して「メッセージングハブ」とも呼ぶ。コピー機を「セロックス」、ツナ缶を「シーチキン」といった具合に、特定企業・商品がその領域を象徴して用いられるように、米メディアをチェックすると、Twitterも同様に使われることがある。
要するに、Twitterとは公開独り言である。とは言っても、モロ師岡やヒロシ、つぶやきシローになるためのツールというわけではない。三段なぞや三題噺を投稿して、フォロワーから「さぶとん一枚」と賛同してもらい、『笑点』だってできる。落語家の修行にもってこいだ。
もっとも、そうなってしまうと、面白さから始めたにもかかわらず、フォロワーからの賛同に応えなければと負担となり、嫌気がさしてしまう。いわゆるコミュニケーション疲れだ。しかし、実は、プロはそういうプレッシャーの下で活動を続けている。それを経験してみるというのも一興である。
まあ、プロは他者、アマは自分を主体にする。当然、自分のペースで楽しむ姿勢でいないと、アマは長続きしない。楽しみが気晴らしや趣味の原点であるのも確かで、Twitterはコミュニケーションにおけるそれを思い起こさせてくれる。
メッセージングハブを文学に利用するとしたら、アフォリズムや詩だろう。短歌や俳句はもちろん、連詩も悪くない。文字制限は決して表現の束縛ではない。サッカーは、腕以外の身体部位を用いているから、醍醐味がある。それを変えろと文句を言う人は別のスポーツを選べばいい。
心をうつ言葉は、表現に慣れていない人から発せられた場合が少なくない。それは表現の限界に直面しながら、何とか他者に伝えようと苦闘しているからである。そういった言葉は、受け取った人が言葉にならなかったことを思い浮かべるため、自己完結していない。
通常の独り言は 私的であるが、ウェブ上では公的となる。ブログに「ああ、腹減った」だけを書くわけには行かない。しかし、Twitterなら、つぶやきである以上、それでもかまわない。ブログほど論理や思考が要求されない。けれども、どんなつぶやきも投稿してもよいというわけには行かない。
2009年2月5日、警視庁中野署は、お笑い芸人のスマイリーキクチのブログに中傷を書き込んだとして、全国の男女18人を名誉棄損の疑いで書類送検する方針を固めたと発表している。脅迫は言うまでもなく、罵詈雑言や誹謗中傷、嫌がらせも避けるべきである。インターネットは公共空間であるからだ。
サイバー・スペースは誰かの所有物でも、縄張りでもない。利用者は、使用料を払っているとしても、あくまで借用しているにすぎない。金田一秀穂杏林大学教授は、『「汚い」日本語講座』において、所有権を認めつつも、自由裁量権がそれに自明に伴うことはないと次のように譬えている。
「電車の車内で化粧をする人がいて、顰蹙を買う。電車の車内の空間は、切符を買った人に属している。しかし、そこの裁量権は公共にある。化粧をする人は切符を買っている以上車内にいる権利を持っているし、その座席はその人に属している。
しかし、そこで何をしてもいいというものではない。その空間を勝手に化粧室に変える権利、すなわち裁量権はその人にない」。
ネットでは公共性と倫理性を考慮しなければならない。「電子版文芸共和国」を台無しにするのは、衝動性と独善性である。それが支配するとき、ネットはその建設的な力を奪われる。衝動性と独善性にとらわれた投稿は、ウェブ上に氾濫しているのも事実だとしても、コミュニケーションではない。
18世紀の欧州で、「文芸共和国」と呼ばれるフランス語を共通語とした手紙のネットワークが形成されている。フランス語の読み書きさえできれば、誰でもそこに参加でき、自分の意見を共和国の大統領とも言うべきヴォルテールに送れる。書簡は公開されることが前提であり、私信は、事実上、存在しない。
インターネットのもたらした現代社会は啓蒙主義の時代と非常に類似している。Wikipediaはまさに電子版百科全書である。また、啓蒙主義は、イマヌエル・カントが『啓蒙とは何か』で考察したように、公共性を問い直している。今を「電子版啓蒙主義の時代」と命名できるかもしれない。
「その空間を勝手に化粧室に変える権利」があるとする便乗者は、本来なら、論外だ。以前から、ネット利用に関して、シチズンシップ、すなわち市民意識が求められると唱えられている。それは利用法だけではない。インターネットは参加者によって育てられるべき空間である。
利用するにとどまらず、公共性と倫理性の意識を持ち、インターネットを「共育」していくのだという姿勢が不可欠である。
ネットは情報の収拾・発信・共有に向いている。利用の過程で、交友範囲が広がっていくことはあるが、深まっていくとは限らない。熟慮された議論はネット向きではない。文字情報だけでは、社会的スキルが大幅に制限され、親交を深めるのには限界がある。
日本のネット世論はウェブ独自と言うよりも、既存のマスメディアに依存している。マスメディアのアジェンダ設定に対する批判にとどまっている。ネット世論はマスメディア以上に単純な二項対立の図式を求める傾向が強い。複雑で入り組んだ問題をじっくりと解きほぐし、熟慮することを好まない。
日本におけるインターネットは、その意味で、「メディア」と呼べる段階にまで成熟していない。世界的にはともかく、日本では「カウンター・メディア」程度である。
メッセージングハブは、熟慮という点では、希薄である。しかし、現時点で最も私的な領域をリアルタイムにウェブ上で公開するため、逆説的に、公共性と倫理性が問われることになる。リアルTVが人気を博するご時世、いずれこうしたサーヴィスが登場するのも時間の問題だったろう。
インターネットの民主化は参加者の公人化を意味する。いかに気軽であったとしても、そこで何かを送信しようとする際には、公人として振舞わなければならない。そこに私人はいない。ネットは公的領域を拡大し続けており、今後もさらに拡張していくだろう。Twitterは、改めて、この画期性を意識させる。
What are you doing?
〈了〉