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フロイトと虐待(2014)

フロイトと虐待
Saven Satow
Jul,.07, 2014

「こわばった指では、壷からバターはとり出せぬ」。
インドの諺

 今日、ジークムント・フロイトの理論で精神分析派以外にも広く認められているのはPTSDである。戦争や災害、犯罪などの過酷な体験によって心に傷を負い、その心的外傷によって不安障害が引き起こされる。「トラウマ」は今では日常会話の語彙にまでなっているが、本来の意味を確認し、精神疾患との関連で使われるべきである。

 フロイトと違い、現代の精神医学は心因論をとっていない。うつ病を考えればわかるが、病気の原因を特定することは概して困難である。医師の役目は原因究明ではなく、治療であるから、心因論の意義はさしてない。標準的精神医学は心因論と結びついている「無意識」も用いない。フロイトの理論はそれだけ今と合わない。ただし、例外もある。それがPTSDである。この疾病は心因論に基づいており、現代精神医学もこれに関してはフロイトと認識を共有している。

 しかし、フロイト自身はこの説を後に撤回する。PTSDは暴力に原因を見出す。エディプス・コンプレックスを始めとする性を中心にする彼の精神分析と整合性がとれないからだ。

 けれども、フロイトがエディプス・コンプレックスとして挙げる精神史上の例は性よりも暴力、特に子どもへの虐待に関わっている。『オイディプス』で父ライオスは子エディプスに暴力を加えている。また、『カラマーゾフの兄弟』において、イヴァン・カラマーゾフはロシアにおける幼児・児童虐待に関する新聞記事を集めている。父フョードルが息子たちに暴力的に振る舞っていることがうかがわれる。どちらも父が自分を脅かす存在として子を認知し、暴力に訴えている。自分にはどうにもならない力としての暴力はその連鎖につながってしまう。

 フロイトは父殺しをエディプス・コンプレックスから説明する。しかし、虐待の動機はされる側ではなく、する側にある。神託や老化など自分ではどうにもならない事情により今の立場を追われてしまう。自分は被害者だ。そこで父は子に対して暴力をふるう。

 エディプス・コンプレックスではなく、虐待の経験が不安障害の一因となる。フロイトの例示からはそう理解できる。虐待のもたらす精神への悪影響をフロイトが明らかにしていたと考えられよう。解離性人格障害など幼少期に受けた虐待が影響しているのではないかと推測される疾病がある。そうした説の先駆となり得た研究だったと思わずにいられない。

 性ではなく、暴力でフロイト理論を再構成した方が、現代的に見て、整合性がある。フロイトの性への固執が多くの離反者を生み、その理論を疑似科学と扱わせる主因である。暴力によって捉えるなら、思いのほかフロイト理論には一貫性が見出される。

 ただ、この転換は視点の変換を招く。エディプス・コンプレックスは子どもの心理を中心にするが、虐待では大人の方を検討することになる。

 フロイトの思想史への多大な貢献は認める。一例をあげるなら、子どもの心理に目を向けた精神分析はアンナ・フロイトとメラニー・クラインの論争を経て児童心理学を飛躍的に発展させている。こうした成果は人類の財産である。

 そういった意義を認めるとしても、暴力によるフロイト理論の再構成は新たな示唆を与えてくれる。それは文明論や人類史などへの拡張も含まれる。

 「王権(Royal Authority)」について考えてみよう。王権の正統性が超越的なものに基づいているという思考は人類の共同体によく認められる。超越者の意思を社会に伝えることが政治指導者である王の役割である。モーセが預言者であると同時に、集団の指導者であるというのは好例だろう。

 この超自然的もしくは超人的存在は神に限らず、さまざまな種類がある。先祖もその一つである。

 王権は神聖である。それを最も明確に表われているのがウガンダのニョロ王国の王である。王は外出する際、臣下に背負われ、絶対に土に触れてはならない。土は不浄の源であり、神聖なる王が汚れてはならないからだ。これは映画『マッドマックス/サンダードーム』の「マスター」のモデルである。

 神聖さが損なわれたら、王は殺され、代わりを選ばなければならない。中国の易姓革命はこうした発想に基づいている。皇帝は天子である。天の命を地で実現する。しかし、天変地異や社会混乱に見舞われたら、それは天の命を現実化する力が衰えているから、皇帝を変えることを求めている知らせだ。そのための革命の暴力は正当化される。こうした王権交代の考えは易姓革命以外にも世界的に広く見られる。超越的なものの意思は王にはどうにもならない。このように父殺しは子ではなく、親の方から読み解かれる。

 虐待を始め暴力と心理の理論としてフロイトを読み直す。それはもっと取り組まれてよい。
〈了〉
参照文献
内堀基光、『「ひと学」への招待』、放送大学教育振興会、2012年
小此木啓吾、『フロイト』、講談社学術文庫、1989年

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