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「すごーい」に見る日本社会(2006)

「すごーい」に見る日本社会
Saven Satow
Dec. 09, 2006

「河馬を見よ」。
『ヨブ記』40:15

 最近、テレビに出演する若い女性タレントが「すごーい」と口にするのをよく耳にします。「すごい」ではありません。「すごーい」です。「す」が軽く発音され、「ごーい」で一気に音程が上がります。そう思っていると、街角でも、若さに限定されず、多くの女性が「すごーい」と言っているのに気がつきます。

 この言葉にしても突然登場したのではありません。以前、松浦共笑が「私、脱いでもすごいんです」と言うCMが話題になったことがあります。しかし、あれは「すごい」であって、「すごーい」ではありません。そもそも、フレーズ自体では「脱いでも」にメッセージの重心があります。

 また、男の子たちが「すげー」と言うことはあります。それは、ロバート・デ・ニーロが役に応じて体重を増減させるエピソードなどの如く、圧倒するような対象に対して発せられています。

 ある人が突然発したことから流行する場合もありますが、不特定多数の人々がいつの間にか同時代的に使うことで広まる場合もあります。「すごーい」は後者でしょう。

 逆に、あまり聞かれなくなってきたのは「カワイイ」です。完全に使われなくなったわけではありませんけれども、明らかに、使用のインフレーションは終わっています。革命が起きているのかもしれません。

 1980年代から「カワイイ」は、最初、若い女性の間で使われ、次第に、男性たちにも広まっていきます。その頃、今時の女子大生はたこ八郎まで「カワイイ」と呼ぶと『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の中で両さんが揶揄しています。言葉の流行は移ろいやすいものです。その点では、「カワイイ」はほぼ四半世紀続いたわけですから、ずいぶん息の長い言葉です。けれども、賞味期限はそろそろすぎたようです。

 ただ、その兆候はあります。2006年の正月、『朝日新聞』が「カワイイ」に関する特集記事を掲載します。また、同じく1月に、四方田犬彦が「カワイイ」を論じた『「カワイイ」論』を刊行します。エスタブリッシュメントがとりあげ始めると、流行は廃れるものですが、「カワイイ」も例外ではありません。

 一般的には、「カワイイ」は自分より小さなものに向けられる愛しさの感情です。客観的と言うよりも、主観的に自分のテリトリーに入れてもよいと感じられるものに対して抱かれます。一方、「すごーい」は大きなものへの驚きとして使われるものです。これも客観的ではなく、主観的に感じられるものに対して用いられます。

 また、「カワイイ」が微笑を誘うのに対し、「すごーい」は目を丸くさせます。もちろん、「カワイイ」が本来の意味から拡大されて用いられていたように、「すごーい」もユニークな用法をされています。

 店頭で、携帯電話を手にしても、かつての若い女性なら「カワイイ」と言ったものですが、今では「すごーい」と軽く叫んでいます。近頃の消費者はたんにデザインだけでは心を動かされません。機能も選ぶ条件なのです。商品が「カワイイ」のは当たり前です。もっと「すごーい」のが欲しいのです。

 「すごーい」が「カワイイ」に代わる地位を占められるかどうかはわかりません。もっとも、「すごーい」が本当に「すごーい」言葉となるかどうかは今後の時代次第です。けれども、この革命はたんなる言葉の流行の移り変わりと言うよりも、社会の変化を反映しているように思われるのです。

 近頃、80年代をめぐる回想や考察の本があいついで出版されています。確かに、80年代は日本社会にとって大きな転換点です。

 80年代を境に、さまざまなもののデザインが劇的に変わっていきます。ウォークマンを代表に、「軽薄短小」が注目された時代です。かつては家電のデザインと言えば、決まりきったものでしかありません。冷蔵庫は白く、テレビは木目調の茶色です。

 けれども、80年代に登場した冷蔵庫にはグリーンのものもあり、黒いテレビもあります。隣も持っているからうちも買おうという時代ではもうありません。すでにどの家にもあるのです。消費者はもっと「カワイイ」ものが欲しくなります。大衆的・競争的消費ではなく、個性的。文化的消費に応える商品を求めているのです。

 「カワイイ」は、言ってみれば、重厚長大という既存のエスタブリッシュメントに対するノイズです。エモーショナルな価値観の時代を端的に示しています。

 今日、軽薄短小は別に優先すべき価値ではありません。なるほど薄型テレビは話題になっています。しかし、小さすぎる携帯電話やデジタルカメラは使いにくいですし、高齢者には、小さな画面は見難いことこの上ありません。優れた高品質な商品、すなわち「すごーい」ものを消費者は求めているのです。

 「カワイイ」は80年代以降の日本社会を象徴する言葉です。しかし、もはや現代の時代の精神を捉えた言葉ではありません。自明性を揺さぶるようなスペックが求められています。デザインから品質へとトレンドが移っています。「すごーい」はそれを表象しているのです。

 しかし、あくまでも軽薄短小の時代を通過した後の言葉です。「カワイイ」が前提となっています。重厚長大な「すごい」と違い、「すごーい」は力強くもなく、軽いのです。その「すごーい」ものは尻込みするとてつもないものではなく、どこか身近です。

 開発者は消費者を置いてけぼりにして、高性能を追求したがるものです。けれども、「すごーい」はそうではありません。消費者の主観性から馳せられるものです。開発者と消費者の意識が通じ合った時に、すなわち共通感覚が生じた時に、抱かれる感情です。

 「すごーい」はとらえどころのないすごすぎるものには発せられません。自分の抱いている認識を根本から変わってしまうのではなく、それがほんのちょっと広がる受動的な体験に用いられるのです。

 イマヌエル・カントは、『判断力批判』において、美と崇高さを論じています。「カワイイ」が美に属するとすれば、「すごーい」は崇高でしょう。

 「おそらくユダヤの律法の中で最も崇高な章句は十戒であろう。『汝、己のためにいかなる形造をも造るなかれ。天にあるもの、地上にあるもの、また地下にあるもののいかなる似姿をも造ることなかれ』。(略)このように道徳性に関して純粋で、気高く、たんに消極的なだけの禁止には、熱狂の危険はまったくない。熱狂とは、感性の一切の限界を超えた彼方に、何かあるものを見ようとする妄想の如くである」(カント『判断力批判』)。

 もちろん、「カワイイ」も「すごーい」も、カントの美と崇高に比べれば、これほど高尚ではなく、ささやかなものです。それはそうとしても、日本社会には美に代わって、崇高さの時代が到来しているのかもしれません。

 崇高の対象を自らと直結させるなら、他に対する優越感となりかねません。こんな性能の製品を生産できる日本人は外国人より優秀だと思うのではお話になりません。大切なのは反省する姿勢です。それは自惚れを戒めます。「すごーい」は日本社会が進化できる機会でもあるのです。
〈了〉
参照文献
イマヌエル・カント、『判断力批判』上下、篠田英雄訳、岩波文庫、1964年

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