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多極化と内向化(2012)

多極化と内向化
Seaven Satow
Nov. 23, 2012

「他人を知るのは知識にすぎぬが、自分を知るのは英知である」。
中国の諺

 谷垣禎一前自民党総裁は「保守」の再検討を公言していたが、挫折している。穏健な彼に代わって、自民党は、職を投げ出した経歴を持ち、観念論を口にする右翼の安倍晋三を新総裁に選出している。しかし、保守の先鋭化は日本に限った現象ではない。アメリカでも、12年10月24日に”CBS This Morning”に出演したコリン・S・パウエル元国務長官は穏健派の弱体化を嘆き、非妥協的な先鋭的保守主義の拡大に懸念を示している。

 保守主義は現実に依拠して自由主義に代表される近代主義を批判する。理念がないので、体系性に乏しいが、それは保守主義の強みである。理念に基づく社会の変革は現実との間に齟齬や矛盾を生み出す。それを緩和したり、修正したりするのが保守主義の役割である。ところが、今の保守派は現実主義ではない。観念論である。

 依存する自由主義が後退しても、保守主義は弱まらない。むしろ、増長し、先鋭化する。この一因として多極化が挙げられる。多極化は覇権国の影響力が弱まり、従来その下にあった国や地域が自立を目指す動きを示している状況を意味する。その際、従前の覇権国は脅威にさらされているとして同質化傾向を強めるなど共通意識が内向きになる。安全保障を口実に、国家統制を強化し、特定イデオロギーや価値観の強制を試みる。外からの脅威を根拠にして保守主義は観念論化し、右翼へと変容する。こうなると、歯止めが効かず、独善的に突っ走っていく。

 歴史に好例がある。「唐宋変革」がそれである。内藤湖南以来、中国史では唐と宋の間に断絶があるとしている。中国における統一王朝は大きな中国と小さな中国とも言うべき時期に二分できる。前者は北方や西方を含んだ多民族的な傾向のある王朝である。他方、後者はそれらを排除して漢族中心にまとまろうとする王朝である。唐は大きな王朝、宋、正確には北宋は小さな王朝である。

 漢族の定義は難しい。ここでは、先祖を敬うなど家族関係や衣食住の習慣を共有して、漢字を用いて漢語を話し、主に農耕に従事して漢族というアイデンティティを形成してきた人々とする。これは近代の国民国家のもたらす国民意識とは違う。余談ながら、日本人の固有の特徴の一つとして位牌を大切にすることが挙げられる。火事の際に位牌を持ち出す光景を日本人は不思議に思わないが、世界的に珍しい。日本人のアイデンティティとしてこれが自覚されていないのが不思議である。

 唐は支配領域こそ広くなかったものの、周辺地域への文化的影響力が非常に大きい。遣唐使を派遣した日本を始め異民族も中国を手本に、政治・経済・社会の制度を整備している。

 歴代王朝にとって、安全保障上の最大の懸念は北からの脅威である。その侵入に即座に対応するため、首都を支配領域の北方に置くのが常である。唐の都が長安であったのは、支配領域が狭かった証である。明は当初南京を都にしたが、北からの脅威に備えるため、途中から北京に変更している。

 北京は盛岡とほぼ同じ緯度である。北緯40度前後は穀物の生育の境界に当たり、平壌やサマルカンド、バグダッド、イスタンブール、ローマ、マドリードなど世界的大都市が位置している。

 一方、動乱を経て建国された北宋は歴代統一王朝の中でも小ぶりである。日本も正式な外交関係をとっていないように、周辺の異民族が自立の動きを活発化させ、北や西からの圧迫を頻繁に受けている。

 こうした北からの脅威を背景に、宋は中央集権的な文官統制を強化している。地方の軍事と行政を担っていた節度使を削減、中央から地方官を直接任命する制度に改める。隋以来の科挙も拡充される。前近代の中国は徳治主義に基づいている。科挙は徳、すなわち儒教の習得を問う試験である。これに合格しようとすれば、そのイデオロギーに忠実であらねばならない。宋代の儒学は宋学と呼ばれ、思弁的で、中華正統主義、政治と道徳の一体化などの特徴がある。

 また、都の開封が交通の要所であったため、商業が非常に発達している。対外的交易にも積極的に乗り出している。経済の中心が農業であることに変わりはないが、商業的性格が強い。地主も大土地を世襲的に支配して自給自足の刑を行う領主ではない。利益を求めて各地の土地に投資留する投資家である。

 宋は政治的には統制が強い中央集権的でありながら、経済的には商業が発達した王朝である。両者は関連している。士大夫、すなわち科挙に透った官僚は中華正統主義に染まっているので、異民族に敵対的である。軍事費を捻出するため、膨大な導線を発行し、それが商品経済を促進させている。軍事化が商業化を招いたというわけだ。

 とは言うものの、さすがに財政状況が逼迫してくる。11世紀後半、戦争による財政難打開のため、王安石が抜擢され、1069年、彼は大改革に着手する。これを機に、北宋の政治は改革支持の新法派と反対の旧法派の抗争が展開される。

 新法は、農民救済や商業の規制など大商人や官僚時武士への富の集中の是正を目的としている。また、軍事面では、逆に民間活力の導入によって予算削減を試みている。軍馬を民間で養わせたり、民兵を組織化したりしている。こうした改革に対し、政府介入は民業圧迫であるなど既得権益の保有者は徹底的に抵抗、1085年、王安石は失脚する。その後も両者の抗争は続き、この混乱の中、1127年、北宋は近医滅ぼされる。

 北宋は現代と重なって見える。多極化が進み、周辺国が自立し始める。従前の派遣国家は多極化の現実を受け入れず、被害者意識を強め、内向きとなり、排外的な正統主義を志向する。安全保障を口実にし、財政規律が緩む。投機熱が起こり、貧富の格差が拡大、財政難に陥る。改革を行おうとするものの、既得権益を守ろうとする勢力から抵抗を受ける。両者の対立が激化して、政治が停滞する。

 保守の先鋭化はまさに危険の兆候である。それは観念論であり、現実を主観的価値判断によって認識する。自由主義は理念主義と自覚しているけれども、保守主義は自分を現実主義と信じているので、観念化した場合、突っ走ってしまう。純化傾向、すなわち正統主義の強化は分裂を招く。国が一つにまとまるべきだという号令は。逆に対立を激化させる。今、歴史の教訓からわれわれは学ぶべきだろう。
〈了〉
参照文献
岸本美緒、『中国社会の歴史的展開』、放送大学教育振興会、2007年

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