柄谷行人、あるいは父性の欠落(6)(2004)
6 外部?
『探求』の筆者は外部=他者の重要性を強調し続けてきたけれども、この外部は殻の批評が閉じられていることを示している。
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
わたしがそなたで そなたがわたし
そも わたしとは なんじゃいな
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
おもてがござれば うらがござる
かげがござれば ひかりがござる
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ふたりでひとり ひとりでふたり
うそがまことで まことがうそか
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや ややこしや
ややこしや!
(野村萬斎『まちがいの狂言』)
外部性の思考を唱える批評家は、『探求Ⅱ』において、オープン・システムについて次のように語っている。
共同体からはじめることは、諸科学によって支持されている。自然科学に似せようとした文化諸科学が、閉じられた単一の均衡システムから出発したのは、ある意味で当然である。そこでは、自己組織的・自己調整的なシステムが見出されるし、あるいは閉じられた数学的構造が見いだされる。もちろん、身体器官にも癌や自己免疫疾患が生じるように、そのようなシステムにも不均衡や破局が生じることもあるが、そのこともシステム(共同体)の内部だけから説明されうる。オープン・システムといっても、外部そのものをふくむ単一システムにすぎない。
自己組織的システムは初期値敏感性を持ったカオスに含まれる典型的な非線形現象であり、非平衡システムである。気象はカオスの一種であるが、地球の平均気温が五度違うだけで、環境に与える影響は大きい。カオスは決定論的非周期性、すなわち短期的にはスピノザ的、長期的にはライプニッツ的な現象である。自己組織的システムにおける自己は非線形であり、他者も非線形にいる。
システムによる把握は便宜的に境界を設定し、内部と外部を分け、要素の出入りを通じた相互作用を検討することができる。オープン・システムやクローズド・システムは、本来、熱力学の用語であったものが諸分野に応用されている。前者は非線形・非平衡の系、後者は線形・平衡の系を意味している。自己組織的システムでは、内部と外部の境界が決定不能になっており、それは「閉じられた単一の均衡システム」ではないし、線形の方法では把握できない。
初期値敏感性のシステムは初期値が不明であるから、予測できないわけではない。「チューリングマシンの停止問題」、ならびに一般化シフト写像や同様の二次元写像による長時間後の振る舞いは決定不能である。初期値がわかったとしても、微分方程式による一般解は見出せない。こうしたバタフライ効果以上に強い決定不能を内在するカオスを「コンプレックス・カオス(Complex Chaos)」と呼ぶ。決定不能性を持つ決定論的力学系には、万能チューリングマシンのように高い情報処理能力が期待されている。
日本近代文学の保守本流を自認するかの文芸批評家に限らず、戦後の文芸批評は閉じられた系の中で発達してきている。系が開かれたとき、その影響力はなくなる。東西冷戦構造は閉じられた系であり、核の均衡論もそれによって可能になる。核不拡散条約は閉じられた系を維持するために、締結される。その東西冷戦構造が崩壊すると、世界は開かれた系へと変容する。非線形・非平衡の状況下、核の均衡論も理論的根拠を失われる。
開かれた系を経済的にはグローバリゼーションが蹂躙する。資本主義において、金融市場が先行するため、財・サービス市場と労働市場との間に乖離が生じ、金融経済は実体経済を反映しない。資本主義において、金は蓄積するのではなく、投資するためにある。金融資本は投資先を政治的安定性と開放性を基準に捜し求める。グローバリゼーションは運動、すなわち微分方程式的な観点からは把握できない。それは外部を内部化して差異化するのではなく、開かれた系において、初期値の敏感に反応し、雪崩現象を起こす。批評も「変わらなきゃの話」(森毅)になっている。
Seyton: The queen, my lord, is dead.
Macbeth: She should have died hereafter;
There would have been a time for such a word.
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time,
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
(“Macbeth” Act 5 Scene 5)
『倫理21』の作者は、『可能なるコミュニズム』において、こうした時代での倫理と経済的基盤の関係の重要性について「倫理なしのコミュニズムは国家資本主義にすぎない。だが、経済的基盤なしの倫理は空疎である」と次のように説いている。
コミュニズムは単に経済的な問題ではない。それは、カントの言葉で言えば、「他者を単に手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という倫理的な課題の追求である。このような倫理なしのコミュニズムは国家資本主義にすぎない。だが、経済的基盤無しの倫理は空疎である。
アダム・スミス以来、資本主義において倫理と経済的基盤の社会的ジレンマは続いている。横断する批評家はそれを克服する鍵を運動に見出している。しかし、彼が『トランスクリティーク』で警告する環境問題はグローバル性・カオス性・未来性という特徴があり、エントロピーの理解が不可欠である。エントロピーの非可逆性はアイザック・ニュートンの可逆性を前提にした運動をめぐる認識ではどうにもならない。線形的・平衡的な手法自体は否定すべきではない。たとえ非線形現象が着目されているとしても、線形的な方法の完成度と重要性は無視できないからだ。けれども、非線形現象に線形的アプローチをとるのは効果的ではない。経済基盤と倫理の関係はkaratani webの開設者とは別の捉え方から考える必要があろう。
「だが、マニアックにはまっている人は、スピードゲームには興味がない。人の知らない手を見つけることが無上の喜びで、そこに至る過程がおもしろい。はじめはなにがなんだかわからないから、のめりこまない。しかし、一応の手順を知ると、誰かに教えたくなる。他人ができなかったのに、自分ができると、『ほら、このやり方でいける』と伝えたい。でも、まだこの程度ではマニアとはいえないとは、凝りに凝った人たちの意見。そのうちに、自分でオリジナルの手を開発しだす。このときに、なにが楽しいか。ほぼできかけて、あともう少ししたら、最後の詰めに入るという瞬間である。完成してしまったら、アホらしくて同じ手を二度とやる気は起きない。人生という名のパズルだって同様。最初から手がわかっているのなら、やる価値なんてほとんどない」(森毅『解けてしもうたら、やる気など起きないがな』)。
Hej, Jude, co dá ti pláč,
oči pálí a slzy zebou,
víc nemáš, jen malý poslední dar:
znáš písní pár, ty půjdou s tebou.
Hej, Jude, že má tě rád,
to se v písních tak snadno zpívá,
na rubu všech písní, kde končí rým,
tam leží stín, který nám zbývá.
Svět je krásnej, svět je zlej, hej, Jude, věř v něj,
do vínku nám dal víc ran a boulí,
a do těch ran ti sype sůl a láme hůl,
tak vládne nám svět, tak s námi koulí,
ne ne ne ne ne ne ne ne ne.
Hej, Jude, tvou píseň znám,
když ji zpívám, tvé oči září
a potichu a skromně broukáš si dál,
až celý sál jen tobě patří.
Tak jen pojď sem, já půjdu tam, hej, Jude, já mám
tvůj lístek až tam, kde málo vidím,
jen poslouchám a skrývám stud, hej, Jude, Bůh suď,
proč zpíváš líp, já nezávidím,
ne ne ne ne ne ne ne ne ne.
Hej, Jude, ty víš a znáš,
oči pálí, snad mám v nich slídu,
jen proto v tvých ústech překrásně zní,
ty zpíváš v ní celou světa bídu, bídu, bídu, bídu, bídu, bídu,
da da da da da da da da da da da, hej, Jude ...
(Marta Kubišová, John Lennon a Paul McCartney “Hej, Jude”)
ある現象が起きた際、その原因と結果の因果関係を見出し、分析するのではなく、現象自体を言説を用いて、シミュレーションし、記述する。現代の経験科学は原因解明不能な問題に取り組む。医学の目的は疾病の予防・治療である。原因がわからないから何もできないでは許されない。原因よりも要因の関連構造と発生メカニズムを明らかにして問題解決に挑む。
ファナティズムの批評家は書くことを経験科学にはしなかったが、今や書くことはこうした経験科学である。書くのと同様、読むことも非戦形性・非平衡性を具現化した経験科学でなければならない。ヨーロッパを徘徊する赤い幽霊の作品を読みこんで、現代社会を読み解くのではなく、現代社会にとってその言説をいかに使うかを考察する。読解を一九世紀的な解釈から二〇世紀的な道具へと見直す必要がある。テオドール・W・アドルノ=マックス・ホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』において、「道具化した理性」を人間の道具化へとつながると批判したが、道具を使うことによって身体は意識される。それは一種のエンジニアリングである。フランクフルト学派流の発想は線形的世界観に基づいている。エンジニアリング・リーディングを今や提唱しなければならない、”Verfolgt das Unrecht nicht zu sehr” (Bertolt Brecht “Die Dreigroschenoper”).
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