文章論としてのリテラシー・スタディーズ(2012)
文章論としてのリテラシー・スタディーズ
Saven Satow
Feb. 10, 2012
「ルールブックを覚えただけで、より良いプレーができるわけではない、ということも事実であろう。勝つための戦略とか、こういう場合にはどう動くべきかといった戦術、等々、ルールブックには書かれていないいわば『解説』である。母語話者にとって必要なのは、むしろこの『野球の解説』のような説明ではないだろうか。自分自身のプレー向上のため、という点ではもちろんであるが、トッププレーヤーのすばらしいプレーを的確に説明してくれる解説者の言説は、野球をより深く理解するためにも有効である」。
杉浦克巳『日本語学』
語と語が組み合わさって文が形成される。各語にはそれぞれ機能がある。文は動作や様子、挨拶、要求、心情、意見などを表わすことができる。さらに、文と文が組み合わさって文章が形成される。各文にはそれぞれ機能がある。文章は時間・空間の推移が伴う変化、理由・関係に基づく説明などを表わすことができる。語と語、ならびに文と文の組み合わせを成り立たせている仕組みは、暗黙知・明示知の規則・規範に従っている。書き手と読み手は、それを共有した上で、コミュニケーションをする。組織化された文や文章は詩歌や標語、広告コピー、メール、報告書、企画書、手紙、日記、小説、諷刺、随筆、記事、論文などとさまざまなジャンルで呼ばれる。
文を考える際には、構成している語の機能を明らかにすることが必要である。また、文章を考える際には、構成している文の機能を明らかにすることが必要である。組み合わせの規則や規範は広義の文法に属する。これを「リテラシー」と呼ぶ。この文法は使用者に固有の発想をもたらす。それは、歴史的な姿や他言語と比較した際に、明瞭になる。その上で、全体がどのように構築され、いかなる作用をもたらしているか、内容と形式はどんな関係をしているかを考察する。
従来、文芸批評は作家論や作品論、文体論が主である。しかし、リテラシー・スタディーズは言葉の単位として文章を考えるこうした文章論的アプローチを採用する。精緻であると同時に、汎用性が高く、共時的・通時的問題にも強い。文章論によって作家論や作品論、文体論の文学的体系も再構成できる。
リテラシーに着目する解剖学的読みは、文学作品のような文章の構造が複雑な対象であっても、有効である。ほんの一例を示そう。
芥川龍之介の『羅生門』は、よく知られたように、主格の助詞の「は」と「が」が効果的に使い分けられている。
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
この書き出しの段落では、「下人が」であるが、以下では「下人は」が用いられている。しかし、場面が変わって、新しい人物が登場する際には、「が」が一度だけ使われ、以下はまた「は」が続く。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。
「は」と「が」の役割の違いの研究は、現在まで、非常に蓄積されている。一部不明の用法もあるが、『羅生門』の用法は従前の成果から説明できる。
両者の機能の差異を理解する際、次の二文の比較が示唆を与えてくれる。
犯人はあなただ。
あなたが犯人だ。
眠りの小五郎(コナン君)や金田一少年がそう言った場合、いずれであっても、誰が犯人であるかが重要である。すでに犯罪が起きているのだから、「犯人」は旧情報であるが、それが「あなた」だということは新情報である。「犯人」=既知情報、「あなた」=未知情報という関係が成り立つ。既知情報を先に言う際には「は」、未知情報であれば、「が」がそれぞれ使われている。ここから二つの助詞の使い分けの基準は情報の新旧ということが導き出せる。
未知情報は「が」の前、既知情報は「は」の前にそれぞれ置かれる。最初の段落で下人は初めて登場する。この場合、下人の存在が未知情報であるから、その後には「が」が用いられる。一方、それ以降では下人は既知情報であるので、その後には「は」が来る。その時点では、下人の存在ではなく、彼が何をして、どう考えているかが関心事である。その後、場面が展開し、新しい人物が登場すると、「が」が再度使われる。
非常に巧みだと言いたいところだが、実は、文豪でなくても、昔話を語ると、暗黙のうちに「は」と「が」の使い分けが次のようにできてしまう。
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。 おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
ある日、おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れて来ました。
昔話は未知情報と既知情報を効果的に織り交ぜつつ読者=聞き手を世界に惹きこむ、「は」と「が」の使い分けは重要な機能を果たしている。二段落目に場面が展開すると、おばあさんの存在が一旦リセットされるので、「が」が使われている。大きな桃は初出であるから、「が」が後に就く。『羅生門』の文章構造は、もちろん、これほど単純ではない。複雑でありながらも、明確に使い分けられていることに驚きを覚えずにいられない。芥川龍之介はこうした暗黙知を明示的に作品上で展開して見せたと推察できよう。
『羅生門』は、周知の通り、『今昔物語集』の29巻18話に素材を求めている。『竹取物語』が現存する最古の物語文学の一つとされている。それ以来、物語にはいくつかの決まりごとが見られる。『今昔物語集』も踏襲している。
物語は「今は昔」で書き出され、伝聞推定の助動詞「けり」で終わる文が三つ続く。以下は、現在形だったり、過去形だったり、完了形だったりと定まらない。語っているように叙述するためである。盛り上がってきたところで、伝聞推定を使ったのでは、臨場感が損なわれる。その後、物語が幕を閉じる際に、また「けり」で終わる文が用いられる。読者=聞き手に対して物語世界を開くときと閉じるときに「けり」が使われる。
「は」と「が」の使い分けや「けり」の使用は、その作家「らしさ」と言うよりも、物語形式、すなわちジャンルの要求する「ふさわしさ」に則っている。『羅生門』では、「ふさわしさ」を踏まえつつ、それをより効果的にする芥川龍之介「らしさ」が表象している。文体は「ふさわしさ」と「らしさ」の二重構造をしている。ある形式・ジャンルを選択したら、送り手と受け手の間にその共通認知が成り立つ。さらに、その効果を高めたり、低くしたりするのは書き手の裁量に任されている。
「ふさわしさ」と「らしさ」の関係は新聞記事を例にとるとわかりやすい。新聞記事は、文章構造が要点先行の逆三角形をしている。また、共同通信社が刊行している『記者ハンドブック』において表記や用語、文・文章の組み立てなど「ふさわしい」文体が比較的明確にされている。これらを踏まえた上で、各記者は記事を作成する。同じニュースであったとして、書き手「らしさ」が表われ、原稿の出来上がりは異なってくる。
狭義の文体論、あるいは文学読解で使われる修辞学は「らしさ」、すなわち作家の個性による文体の考察である。文体は社会性=「ふさわしさ」と個性=「らしさ」の二つの基軸によって様相が規定される。文体における「らしさ」は「ふさわしさ」を必須とする。「ふさわしさ」の基準は用語や表記、文・文章の組み立てなど数多くの要素に及ぶ。それを母語話者は「ふさわしく」使い分けている。
「ふさわしさ」は二つの基準を提供する。一つは内部の許容範囲である。書き手は任された裁量権を行使するときに、各種の取捨選択を通じて個性が表出する。もう一つは逸脱する際の枠組みである。イノベーターはそれをアイロニカルに利用する。そうは言うものの、「ふさわしさ」と「らしさ」の境界は曖昧である。文体の特徴は、しばしば、形容詞もしくは副詞によって言い表される。それは相対的であることを示している。
現在、日本語の文体の基本形は漢字ひらがな交じり口語体である。日本語の書き言葉は標準語をベースにしている。と言うよりも、標準語は書き言葉を基礎づける話し言葉であり、それはデジュール・スタンダードではなく、デファクト・スタンダードである。歴史的に見て、戦後は基本文体が統一された初めての時代だと言ってよい。平安時代であれば、公文書は漢文、和歌はひらがなだけで記されている。また、明治時代の法律の条文は漢字カタカナ交じり文語体で書かれ、文学界は言文一致を模索している。
文字の用い方が文体を最も特徴づける。その上で、語の使い方や文の組み立て方が決まる。さまざまな過程が入り組んだ結果によって文体が定着している。公文書や実用書などのように形式主義の強い書式に沿った文体が広まったり、想定される読者に合わせて創意工夫された文体が認知されたり、社会や時代、媒体、筆記用具の変化に対応した文体が共有されたりする場合もあるだろう。中には、登場したものの、淘汰された文体もあるに違いない。受容と淘汰を経て、文学のみならず、社会における書き物の各ジャンルにふさわしい文体が形成される。文章論から考察する場合、ジャンルへの意識を強く持つ必要がある。
「ふさわしさ」と「らしさ」からの把握は、登場人物の理解の際にも、有効である。人物は属性と個性を持っている。それらは言葉遣いやしぐさ、表情、知識、技能、認知特性などを通じて連合的に描写される。その文体と叙述が「ふさわしさ」と「らしさ」において適切であるかどうかは作品の出来をしばしば左右する。ただ、ジャンルによって両者の調合は異なる。諷刺性が強くなれば「ふさわしさ」が強調され、空想性を追求すれば「らしさ」が前に出てくる傾向になるだろう。
絶対的な真理はないとして、作品を作者の意図から解放し、自律的なものとしてその文章自体を読む。こうした姿勢はテキスト論と総称できよう。テキスト論が流行した際、「テキスト(Text)」を「織物(Textile)」に引っかけて読解を展開することが提唱されている。しかし、それは文学者・研究者が服飾に関して半端な知識しか持っていないことを告げている。テキスト論者は織り成しを口にしながらも、それが何たるかも理解せず、ただ何となく隠喩として利用したにすぎない。その思いつきと思いこみの姿勢は恣意的な解釈を蔓延させてしまう。
被服の基本構成要素は繊維である。被服材料として用いられる布は、その繊維を束ねた糸を組み合わせの作業工程を経て集合させた構造体である。主要な布は「織物」と「編物」に二分できる。
織物は平行に配列された縦糸に直角の方向から横糸を交錯させた基本構造をしている。織物は薄く、均質で、糸軸方向に強い。斜め方向から力が加わった場合、縦糸と横糸の尾交差した角度が変化するため、変形しやすい。しかし、それにより平面形状でありながら、立体曲面に対応できる。ただし、型崩れに注意が要る。
一方、編物は屈曲した糸のループが連続する網目の基本構造をしている。ループが立体的に絡み合っているため、糸相互の接触圧が小さく、その自由度が大きい。また、編地に力が加わると、ループ形状がその方向に容易に変形すると同時に、糸自身の弾性によって元の安定状態に戻ろうとする。編物は、そのため、織物以上に伸縮性を持っている。ただ、型崩れしやすく、改まった場面での編物の被服の着用は避けられる傾向にある。
さらに、衣服として着用すると、さまざまな布の変形が複雑に生じ、その力学的性質と表面特性が相まって、固有の着心地が感じられる。主に力学的観点に絞って織物と編物から被服に簡単に触れたが、もちろん、これだけで話は終わらない。
この被服の考え方は先に述べた文章論の思考方法と同じ過程をたどっている。リテラシー・スタディーズはこうした思考方法の総称であって、文芸批評のみならず、他領域へも拡張できる。マンガも線とコマの組み立てと捉えれば、この方法論が使える。その汎用性のために、現代の学際的状況にも対応し得る。複数の領域に亘る対象を同時に扱うことが可能だ。文学も学際化の流れの中にある。特定領域に閉じこもり、それ以外には無関心になることはもはや許されない。文章論としてのリテラシー・スタディーズは、こうした状況に「ふさわしく」、新たな「らしさ」の体験を提供する。
〈了〉
参照文献
牛腸ヒロミ、『ものとして、心としての衣服』、放送大学教育振興会、2011年
杉浦克巳、『日本語学』、放送大学教育振興会、2009年
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/