「汚れた手」としての政治(6)(2022)
第6章 最高度緊急事態
『汚れた手』の時代設定は第二次世界大戦直後である。今日とは、そのため、国際法の理解も異なっている。それを確認しておこう。国際法は紛争のない平和な世界の実現を目指し、経験と議論が積み重ねられている。そうした知見を無視ないし軽視することはそれに対する挑戦である。
欧州全体を巻き込んだナポレオン戦争の反省により、諸国の間で力の均衡論が採用される。ある国が突出したら、他の国々が同盟を組んで戦争をし、力の均衡を維持する。諸国間のパワー・バランスを保つための小さい戦争が大きい戦争の防止につながる。この力の均衡論は第一次世界大戦までの国際政治の理論である。19世紀の欧州諸国の体制は類似している。その共通基盤を信頼して、同盟を柔軟に組み替えて力の均衡を維持し、大戦争を抑止する。けれども、20世紀を迎える頃には同盟が膠着化し、その連鎖によってサラエボ事件が世界大戦に発展してしまう。力の均衡論はこうして破綻する。
1920年、世界平和の確保と国際協力の促進を目的に国際連盟が結成される。また、1928年、第一次世界大戦の参戦国がパリ不戦条約に著名する。国際社会はもはや戦争を認めない。その際、参戦国でなかったスペインが憲法に戦争放棄を記す。この条文はフィリピン憲法にも書き入れられ、その後、日本国憲法にも採用されている。
ところが、国際連盟の加盟国で、不戦条約の締約国である日本が1930年代に「事変」や「事件」と言って事実上の戦争を繰り返す。「侵略」との国際的非難に対して、日本は国際連盟からの脱退で応える。第一次世界大戦後に形成された世界平和と国際協力の枠組みはこれにより崩壊へと向かう。
1945年、第2次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟の反省を元に、国際連合が創設される。国連憲章は2条4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定している。これは「武力不行使原則(the Principle of Prohibition of the Use of Force in International Society)」と呼ばれる。
ここでは「戦争(War)」が用いられていない。それどころか、実は、国連憲章に「戦争」の語は登場しない。代わりに、「武力による威嚇又は武力の行使」が使われている。これはあらゆる「武力(Force)」の使用を禁止するという意図である。それには軍事力のみならず、政治的・経済的圧力も含まれる。
「武力の行使」は憲章51条の「武力攻撃」よりも広い内容の概念である。武力攻撃と武力行使は重大度の高低によって区別される。この解釈に関してニカラグア事件の判断が引用される。正規軍が他国に侵入することが前者、他国の内戦において叛徒に武器等を支援することが後者である。
現在、武力不行使原則は国連憲章上の規定にとどまらない。慣習国際法上の原則としても認められている。これを正面から否定ないし挑戦する国家が国際社会に存在していない以上、「強行規範」とも考えられる。現代国際社会において、戦争はすべて違法である。「戦争のできる国」は理念上存在しない。国際法は紛争のない平和な世界の実現を目標にしている。それを目指す国連は加盟国に「武力行使」も原則的に認めていない。
例外が自衛権と集団安全保障、相手政府の要請に基づく武力行使である。集団安全保障は国連軍に関することである。また、相手政府の同意は2013年にマリがフランスに要請したケースである。国連憲章上の自衛権は相手国からの武力攻撃に対する反撃の権利である。武力攻撃に至らない「武力による威嚇又は武力の行」についての自衛権行使は認められない。
国際司法裁判所は自衛権行使を被害国による「均衡のとれた対抗措置」に限定している。これは憲章に明記されていないけれども、やむを得ない緊急の反撃であっても、相手国の武力攻撃と均衡がとれていなければならない。自衛権行使には緊急性などの必要性だけでなく、均衡性も原則とされる。
「武力攻撃が発生した場合」という憲章の記述をめぐり先制自衛論が主張される。実際に発生する前に武力攻撃の脅威が存在した時点で自衛権を行使できるという考えである。こうした拡張した見解をとり、イスラエルのように、実行している国もあるけれども、国際的な一致が達成されていないのが実情である。
また、集団的自衛権に関する解釈には次の三つの見解がある。
1 個別的自衛権を共同で行使すること。
2 武力攻撃を受けている他国を援助すること。
3 他国が武力攻撃を受けていることにより自国の死活的利益が侵害されていること。
現在、国際社会において標準的規範とされているのは2である。それはニカラグア事件に対する国際司法裁判所の判断に基づいている。
こうした国際法の蓄積を見る時、マイケル・ウォルツァーの〚正しい戦争と不正な戦争〛(1977)の正戦論は特に検討する必要もない。国際法ではなく、政治哲学からの考察と言うが、内容として重なるところもある。にもかかわらず、あえて「正しい戦争」を今さら引っ張り出す意義はない。繰り返しになるが、近代の政治の目的は平和の実現である。そのきっかけともなった宗教戦争は善いよりも正しいを優先させる認識を前提にしている。戦争は残酷で悲惨なものだから、いかにして防止するかの試行錯誤を繰り返している。その過程で戦時ルールの国際的枠組みも整備されている。それを破れば、悪として指弾される。戦争を避けなければならないからこそ、始まってしまった場合、それはうしろめたいことだ。戦争を始めた政府は政治的に失敗している。正しい戦争にはそうしたうしろめたさがない。
むしろ、ウォルツァーの考察で興味深いのは「最高度緊急事態(Apreme Emergency)」論である。
第二次世界大戦中、ウィンストン・チャーチル首相はドイツへの空襲の理由として「最高度緊急事態」を挙げている。イギリス軍は、損失を抑えるために、ドイツに対する空襲の際に夜間を選ぶ。しかし、昼間に比べて、攻撃目標を認識するのが難しく、民間人を巻きこむ無差別爆撃になりやすい。
ウォルツァーは戦争慣習を無視できる例外としてこの「最高度緊急事態」を挙げる。しかし、これは極限状態であり、チャーチルの主張と違い、都市爆撃はそれに当たらないと批判している。
武力攻撃に対する反応には、一切の反撃をすべきではないという人道主義的な反応もあり得るだろう。しかし、報復すべきという反応がより大きいように思われる。その際、論拠として持ち出されるのが功利主義である。自分たちの受けた被害や犠牲と同じ程度の損害を与える事が正当化される。事態は急を要しており、自分たちの犠牲と同程度の損害を敵に与えるだけだというわけだ。
しかし、ウォルツァーはこうした報復に功利主義の計算は実際には成り立たないと指摘する。自国の犠牲を重く、敵国のそれを軽く捉えがちだからである。戦争による損害は基数的計算によって換算されないものだ。
考えてみれば、敵が自分たちと同じ人間ではないと認知することで戦闘行為は正当化される。相手も同じ人間と思えば殺して当然と考えることなどできない。憎悪を掻き立て、差別を煽り、そういった感情を払拭させて戦争推進者は人々に殺戮や破壊をさせようとする。こうした認識の下では被害の均衡は成り立たない。
そもそも敵の戦闘行為により非戦闘員が犠牲になったからと言って、その報復として民間人を殺害することは許されない。それは戦争犯罪に当たる。兵士の死は戦闘行為ではやむを得ないが、民間人のそれはあってはならない。両者は、当然、いかなる条件でも等価ではない。プロポーショナルを目的によって換算する考えも手段の正当化につながり、これまでの戦争防止の蓄積を無に期してしまいかねない。自国の兵士の損失を減らし、戦争終結を早めるために、無差別爆撃で民間人を大量に殺傷するなど功利主義的計算により正当化できるものではない。
自衛権行使の際の均衡の取れた反撃にもウォルツァーの指摘は鋭く突き刺さる。当事国にとっての均衡は第三者にとってのそれと異なる可能性が高い。一旦武力行使が始まれば、エスカレートしかねず、終わりが見えにくくなる。
社会の中で暮らしている時であっても、道徳的葛藤が伴う場面において判断せざるを得ないことも少なくない。その際、判断の選択肢が限られているとしても、それを選んだ理由によって説得力に差が出る。特に緊急性の高い場合、判断も急を要し、熟慮する余裕がない。そうした行動はそれ自体よりも理由に道徳性が示される。
ウォルツァーの功利計算批判は、精密爆撃が可能になっているにもかかわらず、誤爆が後を絶たない理由も示唆する。功利計算は相手の命を自分たちより軽く見積もり、これが誤爆を許すように思われる。誤爆したら、理由を調べ、改善に取り組むものだ。しかし、お粗末な誤爆を繰り返すとしたら、それを生かしていない。精密爆撃を行なっているのなら、そのミスショットは正確な誤爆である。かつての絨毯爆撃と違い、大雑把にしかできないので、目標以外が巻き添えを食うのではない。情報入手から極めて短時間の内に誘導爆弾による精密爆撃ができるにもかかわらず、誤爆するとすれば、それは単純な人為的な過誤が原因である。これは人間の認知行動に関連する。相手の人々の命を自国民と同じように扱っているなら、結果の責任を感じて、再発防止を徹底するはずだ。誤爆は差別の産物である。戦闘行為において民間人の巻き添えが後を絶たないのはこれが原因だろう。