中庸のすすめ(2012)
中庸のすすめ
Saven Satow
Dec. 27, 2012
「なんぼ勉強しても、自分で考えな、あかんで。考えてもや、よう勉強せなあかんで(学而不思則罔、思而不学則殆)」。
天野忠『論語関西弁』
師走になると、一年を振り返って、流行語大賞や今年の漢字が発表されはるけど、そん年必要だった言葉いうんがあってもええんやないやろか。逆説かて時代が見えるで。
それやったら、「中庸」がそうやないやろか。
「中庸」いう言葉は、『論語』ん中の「中庸の徳たるや、それ至れるかな」が初出で、儒教では尊重されてきたそうや。今は『中庸』いう本もあるけど、元々はなかったらしい。『中庸』は『大学』と同じように礼記の一編やったちゅう説が有力で、朱子はんが研究しとったんで、『論語』や『孟子』と併せて四書になったそうや。朱子学いうたら、李氏朝鮮や江戸幕府の正統学問やから、五経よりも四書の方が研究の中心に変わったそうや。『大学』は儒教の入門書や言われるけど、『中庸』は最後に読むしめくくりやされてる。
『中庸』も、そやから、時代によって読まれ方が違うて、朱子はんが言うてはるから正しいとも限らん。古典の入門的読み方いうんは、その変遷をたどってみるのがよろし。ある時はああ読まれてるけど、別の時はこう読まれとる。そうすると、全体像がよう見える。
細野豪志はんが民主党の旗印を「中道」にしましょ言うたら、前の首相は「中庸」がええと答えたらしいけど、あん人、わかってへんのとちゃうやろか。純化路線は中庸やないやろ。
森毅はんは、中庸いうんは信念のあるエエカゲンのことやと『私訳「中庸」』ん中で『中庸』の注解を次のようにしてはります。
なにごとかて、なるようにしかならんもんや。アイデンティティなんて、言わんでもよろし。(天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂敎、\\道也者、不可須臾離也、可離非道也、是故君子戒愼乎其所不睹、恐懼乎其所不聞、莫見乎隱、莫顯乎微、故君子愼其獨也)
怒ったり嬉しがったりする前のほうがほんまもんや。その時の気分もあるやろけど、ぼちぼちでええんや。そのほうがうまく行く。(喜怒哀樂之未發、謂之中、發而皆中節、謂之和、中也者、天下之大本也、和也者、天下之達道也、致中和、天地位焉、萬物育焉)
エエカゲンがええのに、イラチになりよる。カシコすぎたらめいわくやし、アホやからいうて何もせんでは生きてられん。むつかしいもんやな。(君子中庸、小人反中庸、知者過之、愚者不及也、賢者過之、不肖者不及也、人莫不飮食也、鮮能知味也、道其不行矣夫)
強さいうたかてがんばりの強さばかりやない。ほどほどにつきあいながら流されん、そんな強さもあるんや。(寬柔以敎、不報無道、南方之強也。君子居之、衽金革、死而不厭、北方之強也、而強者居之、故君子和而不流、強哉矯)
道徳いうのんは、だれでもやってる身のまわりの生き方のことやで。(道不遠人、人之爲道而遠人、不可以爲道、故君子以人治人、改而止)
他人にあれこれ言わんでもよろし。自分がうまいこと生きるのがなにより。(忠恕違道不遠、施諸己而不願、亦勿施於人)
仁とは人、義とは宜、つまり仁義ちゅうのんんは人づきあいのこっちゃ。それをスマートにこなすこと。(仁者人也、親親爲大、義者宜也、尊賢爲大、親親之殺、尊賢之等、禮所生也)
うまいこといくのんは、天がやらせとるんや。そやけど、実際のところは、人間が自分でやるよりしゃあない。(誠者、天之道也、誠之者、人之道也)
何で関西弁なんやろかと思うたら、森はん、儒教にはこれが合ってるからやと言うてはる。朱子学が誤用学問になったんは、徳川はんの頃やから、江戸なはずや思うんやけど、細かいことを気にしてもしゃあない。それが中庸ちゅうこっちゃ。「孔子さんにはお侍の格好は似合わん。町人の姿がよろしい」(『私訳「中庸」』)。
そやけど、大坂の維新には中庸いうところがないねえ。維新に限らず、この間の選挙では、中庸から遠い演説する候補者が仰山おったけど、結果も中庸と形容できんもんやしね。新政権は、首相がそもそもそうやけど、中庸を無視してるからね。
森はんは社交の哲学を説いてはる人やから、中庸もそこから捉えてはる。社交性はつまるところ社会性ちゅうこっちゃ。社会性がないと、声のかけ方もわからんやろ。スマートに社交するんやったら、自分を相対化せなあかん。いろんな人の話聞いて、いろんな知識学んで、偏りを直してバランスようならんとあかん。個別の自分を社会の中に位置づけながら考えるようにするとよろし。
中庸やないと、いろんな人づきあいがでけんようになる。知ってる人や気のあう人だけで固まって、偏った考えが膨らんでまう。極論が極論を呼んでしまうんやで。そらあ、危ないがな。社会性がないと怖いで。今の世の中では中庸は大切な徳や。
極論が勢いを増してるんは日本だけやない。アメリカも中国もヨーロッパもそうや。そやけど、日本の場合、自浄能力が弱いいう特徴がある。
近代日本の歴史を振り返ると、盛り上がりを見せた運動がわりとあっけなく崩れることが多いんやね。急激につぶれると反動がくるから、振れ幅が大きい。昭和初期のマルクス主義運動がいい例やね。直接の原因は内部対立やら当局の弾圧やらやけど、運動が個別の課題を批判しながら、それが普遍的な問題につながっているいうことを示し得ていないうのが背景にはあるんや。ある個別的課題を問いつめることが普遍的な問題への根本的な批判をはらんでいるいう社会性が希薄や。
運動がたいてい個別の課題に終始してるか、特定トピックを口実に普遍的な問題に向かっているかのどっちかやね。前者やったら、状況が変わればしぼむやろし、後者やったら、現状に立脚していないんやから流行に終わるんや。普遍的なことを言うとった人が一気に社会に背を向けたり、国民の情動を無批判的に認めたりしてまう。運動が社会性を持ってへんから時代に翻弄されるんや。
加わった人だけがそうなんやない。運動がいつもこう崩れるいうことは、日本の人は個別と普遍のつながりいう社会性を持てないんで、問題や変化に直面したかて、時代に翻弄された意識が強いんやないか。そやから、日本社会は自浄能力がなかなか育たないんや。こういうんはもう終わりにしよやないの。
つまり、中庸は社会性のこっちゃ。それは日本には必要やで。
〈了〉
参照文献
『大学・中庸』、金谷治訳、岩波文庫、1998年
森毅、『ボケはモダニズムのこっちゃ』、青土社、1999年
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