見出し画像

谷崎潤一郎、、あるいはアンチエロティシズムの文学(4)(2022)

4 谷崎とフェティシズム
 谷崎のマゾヒズムは、先に述べた通り、フェティシズム、特にフット・フェティシズムとしてしばしば表現される。フェティシズムについて興味深い指摘をしているのがカール・マルクスである。

 マルクスは、『資本論』において、貨幣退蔵者、すなわち守銭奴がマネー・フェティだと次のように述べている。

 金を貨幣として、したがって貨幣退蔵の構成分子として固定させるためには、流通することや、または購買手段として、享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それゆえに、貨幣退蔵者は、黄金神のために自分の肉欲を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実である。他方において、彼が流通から貨幣を引上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものだけである。彼は生産するほど、多くを売ることができる。したがって、勤勉と節約と吝嗇はその主徳をなしている。多く売って少なく買うということが、彼の経済学のすべてである。

 守銭奴は収入をできる限り増やし、支出をできる限り減らして、貨幣を貯めこもうとする。貨幣の機能は交換・保存・尺度であるが、彼らは集めること自体が目的である。貨幣のために「勤勉と節約と吝嗇」という禁欲主義に励む。だから、守銭奴は貨幣フェティシストである。言うまでもなく、貨幣が活動を通じて社会に流通することが経済成長につながるので、彼らの行動は望ましくない。

 フェティシストは特定の対象を偏愛するだけではない。それを崇拝するために、禁欲主義的姿勢さえ厭わない。修道士のような態度でその物神に帰依することがフェティシズムである。

 しかも、フェティシストの崇拝対象は具体的な古物というより、そのイデアである。巨尻のフェチであれば、彼らが求めているのはそのイデアを表象するそれである。放尿フェチなら、その角度や色などを通じてイデアが認識できるものでなければならない。だからこそ、ローラン・ヴィルヌーヴの『フェティシズムの博物館』によれば、「フェティシズム」が性器に向けられることは稀で、そこ以外の部分への執着として顕在化し、それを通じて、性器的なものを想像していく。フェティシストは性器には無欲であるが、これは天国のために現世に無欲であるという宗教的意識を思い起こさせる。フェティシズムはイデアへのエロスであり、プラトニズムの一種である。

 だが、谷崎においては、このプラトニズムはフェティシズムにとどまらず、マゾヒズムにより転倒される。マゾヒズムはイデアへのエロスではない。それはイデアによって踏みつけられることに快感を覚えるものである。フェティシズムは「客体のひそかな擬人化、人間化、あるいは客体の活性化と同じことだと言ってもいいだろう」(ヴィクトル・フォン・ゲープザッテル『フェティシズムの現象学』)。客体を主体化し、自身を客体化するフェティシズム的倒錯を谷崎は徹底化する。彼は触感によってプラトニズムを転倒する。谷崎はプラトンを読んでいたが、その評価は『青塚氏の話』への否認がそれを告げている。

 毎年、冬になるとどうも創作熱が起らない。冬書いたもので自分の気に入っているのは「人形の嘆き」と「魔術師」だけであるが、それも実は十月ごろから腹案が出来て居て十二月の中旬迄に書き上げたのであった。(略)創作熱と云うものは如何なる形で起って来るかと云うに、畢竟春が来て草木の葉が芽を吹くように、芸術的空想が頭の何処かでぶつぶつと醗酵し始める。──其れを意識した時に何か創作を書いて見たいと云う切実な衝動を感じる。その衝動を創作熱と云うのだろう。(略)凡ての芸術に、若し何等かの共通な基盤があるとするならば、私は前に述べたような空想の発生が其の基盤であると云いたい。(略)所謂ロマンチシズムの作家とは、空想の世界の可能を信じ、それを現実の世界の上に置こうとする人々を云うのではなかろうか。芸術家の直観は、芸術の世界を踊り超えて其の向う側にある永遠の世界を見る、プラトン的観念に合致する。──こういう信仰に生きて行こうとするのが、真の浪漫主義ではないだろうか。
(谷崎は『早春雑感』)

 イデアは、真の三角形のように、触れることができない。具体的には実在しない抽象的な概念である。一方、谷崎は触ることの快感を次のように述べている。

 私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよとした肉体を支えたような感じでもある。
(『陰叡礼讃』)

 私は実はもう一歩進めて、手ざわりの快感においても、(少なくともわれわれ日本人に取っては、)東洋の女が西洋の女に優っているといいたい。西洋の婦人の肉体は、色つやといい、釣合いといい、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えていたりして、案外お座が覚めることがある。それに、見たところでは四肢がスッキリしているから、いかにも日本人の喜ぶ堅太りのように思えるのだが、実際に手足を掴んでみると、肉附きが非常に柔かで、ぶくぶくしていて、手答えがなく、きゅっと引き締まった、充実した感じが来ない。
(『恋愛及び色情』)

 谷崎は見ること以上に触ることを価値基準としている。見ることを重視しないことは、『盲目物語』や『春琴抄』からより強調される。また、『秘密』でも主人公は目隠しをされている。プラトニズムとしてのフェティシズムがこれにより転倒される。

 触れる行為は愛着にもつながる。『夢の浮橋』や『蘆刈』には成人した男が女性の乳を吸うシーンが登場する。福田恆存は、『好色文学論』において、谷崎に「子供」を発見している。実際、人間の精行為は、醜さを見出すバタイユの指摘と違い、母子間の愛情行為と重なる。子どもにとって、対象は見るためではなく、口に入れたり、触ったりするためにある。豊満な「マリリン・モンローの肉体」には「実用性に裏打ちされたものであったと思われる」ような「美をこえた重大さ」(寺山修司『幸福論』)がある。子どもはこの「美をこえた重大さ」に敏感である。それは谷崎にも認められる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?