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梶井基次郎、あるいは冴えかえった色彩(4)(1993)

4 『桜の樹の下には』と『悲劇の誕生』
 ニーチェは、『悲劇の誕生』において、アポロ的=ディオニュソス的の要素を次のように説明している。

 ギリシア人の二柱の芸術神、アポロとディオニュソスとを手がかりにして、われわれは次のようなことを認識する。ギリシア世界には、造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術であるディオニュソス的芸術との間に、発生から見ても、目的から見ても、巨大な対立がみとめられるということである。二つの衝動はまことに性格が異なっておりながら、たがいに並行して進み、たいていは相互に公然と反目しながら、相互に刺激しあって、つねに新たな、力強い作品の出産にはげむ。産み落としてきた作品の中に、両者は、対立抗争の姿を永久にのこし、わずかに「芸術」という共通語が橋渡しをしているが、それも見かけだけのことでしかない。しかし、この二つの衝動は、あげくの果てには、ギリシア的「意志」という形而上的な奇跡のたすけで、いつしかたがいに夫婦になって出現するようになり、そしてこの晴れの婚姻において、最終的に、ディオニュソス的でもありアポロ的でもある芸術作品、アッチカ芸術を産み落とすことになるのである。

 ニーチェによれば、アポロ的が意味しているのは「美しい仮象」を夢見る能力、すなわち美を具体的な形象として「個体化」する能力であり、一方、ディオニュソス的が意味しているのは狂騒的な祝祭における「陶酔」である。ニーチェは、『悲劇の誕生』において、「ディオニュソス的なものとアポロ的なものとがつぎつぎに幾度も新たな産児を設けて相互に高め合いながらギリシア的な本質を支配してきた」と言っている。

 従来、アポロ的な合理性によってのみとらえられてきたギリシア文化に対して、ニーチェは、ギリシア文化は合理的なアポロの「夢幻」・「形象化」・「個体化」と不合理的なディオニュソスの「陶酔」・「狂騒」・「一体化」という二つの原理の複層的なダイナミズムによって展開されてきたと主張している。アポロは混沌を秩序化し、ディオニュソスは整合化された事象を根源的混沌へとさしもどす。ニーチェは、特に、酒宴の神ディオニュソスの側にアクセントを置いて論証を展開している。こうした思考は、『いなかっぺ大将』の大ちゃんこと風大左ェ門が、音楽が鳴り出すと、ついつい踊りだし、たとえふんどしがほどけ、フルチンになっても、続けることから、その正しさが強調されよう。

 中でも、『桜の樹の下には』がディオニュソス的なるものとアポロ的なるものとの対立と統一への止揚というイデーを次のように端的に表わしている。

 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒を呑めそうな気がする。

 「桜の樹の下には屍体が埋まっている」ということはカフカの『変身』の「Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt.」に匹敵する。桜の樹の美しさというアポロ的なるものと屍体というディオニュソス的なるもの、そしてその桜の樹の下で村人たちがひらいている酒宴--これほど『悲劇の誕生』を体現している作品は、日本近代文学において、ほかに類を見ない。

 『桜の樹の下には』だけでなく、梶井の作品は、「音楽という非造形的芸術であるディオニュソス的芸術」を思わせる文体によって、「造形家の芸術であるアポロ的芸術」を描いている。このレトリック構成は力学的であるが、それは二項対立システムを構築しているわけではない。この場合の力学はニュートン的ではなく、アルキメデス的である。

 アルキメデスの功績として、てこの原理とアルキメデスの原理の二つがあげられるが、彼の力学は幾何学的比例に基づいている。アポロとディオニュソスは比例の関係にある。屍体というディオニュソス的なるものは桜の樹の美しさというアポロ的なるものに語りかけるが、その逆はない。ディオニュソス的なるものはアポロ的なるものとの関係は一方的だ。アポロ的なるものは、ディオニュソス的なるものによって、生まれる。だが、ディオニュソス的なるものは、アポロ的なるものの認定のあとに、発見される。

 詩人と言うよりは、演説家のような口調で主人公は、『桜の樹の下には』において、美と醜の関係を次のように語っている。

 --お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
 二三日前、俺は、ここの渓へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、渓の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。それは渓の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼等のかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼等の墓場だったのだ。
 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような惨忍なよろこびを俺は味わった。
 この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂欝に渇いている。俺の心に憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和んで来る。

 アポロ的なるものとディオニュソス的なるものの対立関係は表象と物自体とのヴァリエーションとして理解し得るかもしれない。しかし、それらは、主人公が「もうろうとした心象」が「明確になって来る」ためには「惨劇」が必要なのだと言っているように、現象世界と本質世界の関係にあるのではなく、現実世界の全体性を表わしている。

 主人公はアポロだけでは満足できず、それにおさまりがつかないディオニュソスの出現を待望している。両者の比例的差異がディオニュソス登場の力となる。主人公は神話ではなく、ディオニュソスの神託を語る。この「惨劇」は、美と醜や生と死の両面を、現実がどうしようもなく持っている矛盾として、具象化している。「惨劇」がもたらす矛盾の「平衡」によって「心象」は現実感を与えられる。現実は矛盾そのものだ。

 「惨劇」は矛盾の結果たる悲哀や苦悩を浄化することなく、矛盾をあるがままに顕示するの。梶井の「惨劇」は人間が巨大な力に打ち倒されることではなく、生への意志によって悲哀や苦悩がつきまとうが、人間はそれを是認して生きることを望むということを意味している。

 アポロ的=ディオニュソス的をめぐる考察は、『悲劇の誕生』というタイトルが示すように、このような悲劇を念頭に置いて行われなければならない。そうでなければ、それら二つの概念はたんなる二項対立に堕してしまう。悲劇はアポロ的な側面とディオニュソス的な側面の両方を含み、その差異によってアポロ的なるものを克服するディオニュソス的要素を「認識」によってではなく、「一体化」によって訴える。悲劇によって、アポロ的なるものとディオニュソス的なるものは統一される。


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