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【死にたいあなたへ】苦しみを哲学で打破しよう

救済学は心の救いを学問に求める試みです。私の記した「救済学試論」から救いとなれば嬉しいようなものを引用します。またこの文章の解説も投稿しようと思うのでお待ちください。どんな苦しみをも打破する思想がここにあります。自ら命を絶つ前に、このような思想を学んでみませんか?

原文

我々生物の生まれながらに持つシステムの幻想として「苦痛」「快楽」を捉える。そして我々はそれの奴隷となっていると表現する。快楽や苦痛に彩られた実体が外にある(実体が直接苦痛を生じさせる)のではなく、それらは自我が構成した内にある(実体→構成→苦痛)と解する。そしてその構成前の世界を単に来るべきものa venirとして定義し、構成作用を自我膜と形容、いくら強い刺激的な苦痛を得ようともすべては自我が志向し構成したものなのだからというように、自我膜(自我による構成)による情動と観念の独立を認める。情動と観念の独立とは、いわば不動心、何物(どんな観念)にも突き動かされない強靭な精神を意味する。苦痛のみならず快楽も独立を認めるがゆえに快楽の強迫にも対応している。これこそ真なる中庸であり、涅槃寂静である。この自我構成諦は認知療法の哲学を究極まで突き詰めたものである。現象学や観念論と通じるところがあり、自分を実験台とした実験により抜苦を確認している。幸福は外部の状態で決まるものではない。内部の状態で決まるのだ。苦痛は外部において起こるのではない。内部において起こるのだ。全ての苦しみは自分が生じさせている。他の誰かや、何かがあなたを苦しめるのではない。あなたがあなたを苦しめているのだ。世界はあなたの意志が志向した表象である。つまりは私が事象の捉え方を変えるだけで全ての苦しみは抹殺されるのである。未来についても同じである。未来に不安があるのではない。私が想像している世界に不安があるのでもない。不安は私の中にある。世界は一つの汚れもなく、純粋だ。苦しみは私の中にある。世界は一つの汚れもなく、純粋だ。受験生や奴隷であること自体は純粋で、何も苦しみはない。現象が苦しみを与えるのではない。現象に対する私の解釈が苦しみを与えるのだ。全ての現象は私の解釈だ。だから全ての苦しみを私は消し去ることができる。そうしようとしていないだけだ。解釈を変えるだけなのだ。外の刺激如何の話ではないのだ。どんな刺激であれ、解釈膜が私を保護しているのだ!全ては私の解釈でしかないのだ。実際は全ての状態に問題がないにも関わらず、情動があるせいで問題を生んでいる。その問題のない実体こそが単に来るべきものa venirであり、問題のある世界、情動の世界は迷妄に過ぎない。世界と情動は独立する。もう何も怖いものはない。私の精神は独立した。恐れるべきものは何もない。勿論関連させて賭博を行っても良いことは自明である。しかし恐れるべきもの、それは消え去るのだ。快苦内在。純粋外在。苦しみの原因は外部の事象ではなく内部の捉え方にある。快楽の原因も外部の事象ではなく内部の捉え方にある。自我膜は正式名称自我解釈膜であり、現象学的に、現象学的還元された内在する志向世界とそれを超越した外在的世界との境目である。苦しみは外からくるものでない。「内在する世界=解釈」しか存在しない。自分がおのずから苦しいと構成しているのだ。全ての原因は自分にある。外からの影響に左右されないという意味で自我膜の保護がある。

「救済学試論」より

解説(未脱稿)

第一節 幻想システム

我々生物の生まれながらに持つシステムの幻想として「苦痛」「快楽」を捉える。

「救済学試論」より

 我々は、苦痛や快楽の本質へとまなざしを向けます。まず、苦しみや快楽を「幻想」と捉えます。幻想というのは、その苦痛や快楽を惹起させた事象について、苦痛や快楽に見える状態のそれはその事象の真なる実体ではないということを意味します。

 いじめられているとして、「死ね」と心無いことを言われたとしましょう。この際に、当然言われた側は苦しみます。しかしこの苦しみを幻想と捉えるのです。反対に、幻想と捉えない状態の「死ね」は純粋体であります。そこには何の苦しみもなく、ただ「shine」と空間を波動が伝わっているにすぎません。ここに言われた側の情動システムが関わってはじめて苦痛が生じたとなるのです。まさに幻想を見ているかのようです。

 ポイントとしては「言葉→苦しみ」ではなく「言葉→解釈→苦しみ」となるイメージです。

第二節 幸福の奴隷

そして我々はそれの奴隷となっていると表現する。

「救済学試論」より

 われわれは幸福を求めて毎日必死に生きています。まるで幸福に急き立てられているかのようです。これを「幸福の奴隷」「情動の奴隷」と表現します。われわれは苦痛を避け、快楽を求める、「情動の操り人形」となっているのです。

第三節 自我構成の内の情動

快楽や苦痛に彩られた実体が外にある(実体が直接苦痛を生じさせる)のではなく、それらは自我が構成した内にある(実体→構成→苦痛)と解する。

「救済学試論」より

 幻想に塗れた実体が外にあってそれが直接私たちを苦しめているのではなく、その実体から生じた「自分自らにより構成されたもの」が私たちを苦しめていると捉えます。

 「実体→苦痛」ではなく「実体→構成→苦痛」というわけです。言い方を変えれば、「実体→解釈→苦痛」としても同じです。とにかく自我による把捉が苦痛と実体の間にあるということが言いたいのです。

第四節 単に来るべきもの

そしてその構成前の世界を単に来るべきものa venirとして定義し、

「救済学試論」より

これは第一節で説明した「純粋体」と同じです。自我が構成、解釈する以前の世界や事象は純粋無垢で、何ら苦しみはないこと。「死ね」はただの「死ね」でしかないこと。「死ね」が我々を苦しめるのではなく「『死ね』の自我による捉え方」が苦しみを生んでいるということ。それを表します。


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