救済学は心の救いを学問に求める試みです。私の記した「救済学試論」から救いとなれば嬉しいようなものを引用します。またこの文章の解説も投稿しようと思うのでお待ちください。どんな苦しみをも打破する思想がここにあります。自ら命を絶つ前に、このような思想を学んでみませんか?
原文
解説(未脱稿)
第一節 幻想システム
我々は、苦痛や快楽の本質へとまなざしを向けます。まず、苦しみや快楽を「幻想」と捉えます。幻想というのは、その苦痛や快楽を惹起させた事象について、苦痛や快楽に見える状態のそれはその事象の真なる実体ではないということを意味します。
いじめられているとして、「死ね」と心無いことを言われたとしましょう。この際に、当然言われた側は苦しみます。しかしこの苦しみを幻想と捉えるのです。反対に、幻想と捉えない状態の「死ね」は純粋体であります。そこには何の苦しみもなく、ただ「shine」と空間を波動が伝わっているにすぎません。ここに言われた側の情動システムが関わってはじめて苦痛が生じたとなるのです。まさに幻想を見ているかのようです。
ポイントとしては「言葉→苦しみ」ではなく「言葉→解釈→苦しみ」となるイメージです。
第二節 幸福の奴隷
われわれは幸福を求めて毎日必死に生きています。まるで幸福に急き立てられているかのようです。これを「幸福の奴隷」「情動の奴隷」と表現します。われわれは苦痛を避け、快楽を求める、「情動の操り人形」となっているのです。
第三節 自我構成の内の情動
幻想に塗れた実体が外にあってそれが直接私たちを苦しめているのではなく、その実体から生じた「自分自らにより構成されたもの」が私たちを苦しめていると捉えます。
「実体→苦痛」ではなく「実体→構成→苦痛」というわけです。言い方を変えれば、「実体→解釈→苦痛」としても同じです。とにかく自我による把捉が苦痛と実体の間にあるということが言いたいのです。
第四節 単に来るべきもの
これは第一節で説明した「純粋体」と同じです。自我が構成、解釈する以前の世界や事象は純粋無垢で、何ら苦しみはないこと。「死ね」はただの「死ね」でしかないこと。「死ね」が我々を苦しめるのではなく「『死ね』の自我による捉え方」が苦しみを生んでいるということ。それを表します。