SNSと弔い
こんにちは。今日はSNSと弔いというテーマで書いていきたいと思います。
お手軽な追悼
有名な方が亡くなったり、身近な人が亡くなったりするとSNSで、「ご冥福をお祈りします」「お悔やみ申し上げます」という言葉が当たり前のように流れてきますよね。
私はこんな性格なので、初めてそういった投稿を見た時、変な感じがしました。
「それ、親族に直接お伝えしたがいいんじゃないか」って思うし、シンプルに「その気持ち、誰に伝えているんだろう?」と。
著名な方の訃報はともかく、身近な人が亡くなって間もないにも関わらず、「知り合いが亡くなって傷心の私」を不特定多数に発信するという承認欲求にはなんだか耐えられません。
日常の喜びや悲しみを当たり前に不特定多数へシェアできる世の中ですが、生前関係のあった故人への追悼すら手軽にできてしまう。
そんなファスト感に違和感、というか超えてはいけない線のようなものを感じます。
追悼の距離感に戸惑う
高齢化が深刻な離島の高齢者施設で私が勤務していた時、ご利用者のおばちゃん・おじちゃんを何度もお見送りしました。
小さな規模の施設だったため、新入社員の私でも全てのご利用者の介助に関わっていました。
初めてご利用者のおばちゃんをお見送りした時は、今でもよく覚えています。
入社して3ヶ月、バタバタと動き回り仕事をしていた最中に、亡くなられたおばちゃんの親戚でもある先輩が特別に部屋に案内してくださり、最後のご挨拶をしました。
つい最近この島にやってきたような私がお悔やみの挨拶をすると、ご家族の方々が快く受け入れてくださったのを覚えています。
それが当時の私にとっては不思議な感覚でした。
以下、心の中↓
(介助やお話しすることはあったし、そのおばちゃんに対する思いもそりゃあったけど、ゆうてまだ入社3ヶ月なのに親しいかのように挨拶しちゃって・・・。私だけなんか不自然じゃなかった?浮いてなかったかな?)
幼少期に祖父が亡くなって以降、身近な人が亡くなることのなかった私は正直そんなふうに考えていました。
SNSと、弔いと、節度
今年の3月、私の祖母が亡くなりました。
高齢者施設で息を引き取った祖母の元へ、施設のスタッフの方が次々とご挨拶に来てくださり、自分自身が新米介護士だったあの時を思い出しました。
たった数ヶ月の関係でもその人と本人だけの関係が確かに存在し、事実通りの距離感であることで、追悼の思いが自然と込み上げてくるのだと感じました。
そんな姿が親族としてもありがたく、嬉しく思うはずだと思います。
事実通りの距離感というのは別に難しくなく、「自分を(親族や他者不特定多数に)よく見せよう」なんて思わず、ただ自然体で亡くなった方へ祈る、そんな感じでいいと思います。
そして、当たり前かもしれませんが、悔やむという気持ちはより大切にしたほうがいいと感じます。
どんな話題も拡散できる時代ですが、「これはあんまり触れないほうがいいかな」「今はタイミングじゃないかな」みたいな違和感や心の声みたいなのは一番大事にするべきだと思います。
他者への気遣いよりもシェアしたい(私を知ってほしい)が上回る自分自身の心理状態にもう少し注意してもいい、とも思います。
他者の不幸は話題になりますが、そこに一糸の承認欲求を織り交ぜられる、またはそう見られしまうのがSNS。
SNSはもはや一般的なコミュニケーションツールですが、使い分けと節度の意識は必要だと思います。
倫理観を常に持たなければ、ごちゃ混ぜ空間のSNSでは、超えてはいけない境界を簡単に超えてしまいます。
他者の生死やプライベートな話題を発信する時は、節度を守るよう気を付ける。
エックスやインスタのユーザーである前に、私たちは礼節のある人間だということを忘れてはいけないなぁと思います。