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突き抜けた天才ゲイ作家『カポーティ』
CSで『カポーティ』をたまたま観賞。フィリップ・シーモア・ホフマン演じるトルーマン・カポーティが中毒になり、3日間で5~6回リピートしている。
この映画を観るのは初めてではない。以前も、WOWWOWか何かで、“たまたま”観た記憶がある。初回はここまでのめりこむことはなかったのに、なぜか今年の正月は、ドはまりしている。
スノッブで皮肉屋のゲイ。社交的だけど内気で、攻撃的だけど小心者。他者に対する鋭い観察眼をもちながら、同時にダダ漏れしてしまう強いうぬぼれ。そして、やがてアルコールに溺れ、人生を消耗していく天才像にうっとりしてしまった。新年早々、没入できるものが見つかって、ちょっと幸せ。
アル中のカポーティは、昼夜酒を手放さないだらしないヤツだが、女性的な所作(←誇張されている)で軽めに握るグラスはすごく高級そうで、ジントニックにはいつもライムが入っているところがいい。
また、セレブが集まるパーティーでも、同性の恋人とバカンスを楽しむスペインでも、夜行列車での就寝時でも(パジャマが可愛い)、凶悪殺人犯ペリー・スミスが収監されている独房でも、カポーティは常におシャレに気を抜かない。
カポーティに心酔してしまうのは、知的で怜悧でおもいっきりぶっ壊れているからだ。突き抜けたゲイの天才作家は、マリリン・モンローやエリザベス・テイラーのみならず、70年の時を超えて、東京のフツー過ぎる会社員をも魅了している。
そこで、私なりに映画鑑賞のポイントを考えてみた。
会社や日常生活の中では、まあまあ頭が良くて、人当たりが良くて、それなりにバカで性格のゆがんだ、“フツー”に囲まれて監視され、当たり障りない人生を生きているのだから、映画ではわざわざフツーを観賞する必要はない。
ぶっ飛んだバカと天才、比類なき意地悪さと優しさ、またはその両方を包含するキャラクターを観賞し、その間だけ、凡庸な自分の中に彼らを棲まわせ、飼ってみることにした。
ちなみに、フィリップ・シーモア・ホフマンは、この作品でアカデミー賞を受賞したが、40代半ばでヘロインのオーバードースで亡くなった。まるで、カポーティの人生を仮託したみたいだ。
他の出演作品を全部観ているわけではないけど、きっと、彼はこの映画に出るために俳優になったんじゃないかと思うほど、中毒性がある。
カポーティを演じるうちに、カポーティに憑依され、飲み込まれ、黄泉の国に連れていかれたのではないかと勝手に想像している。
また、昨夜は小説の『冷血』も読み返してみた。映画の情景と照合しながら、50~60年代のカンザスの描写-独善的で排他的、信心深くて非合理的、金を渇望しながらもそれを忌み嫌う市民-が楽しめた。
本当は翻訳ではなく、原文で読んでみるのがいいと思う。(私の英語力では、読めないけど…)
そういえば、私の大学時代のゼミの友人は、『冷血』を卒論のテーマにしていたけど、まだ大学に記録が残っていたら、それを読んでみたいな。22歳の女の子はカポーティの人格をどんな角度で切り取っていたのだろう。
日本語で出版されたカポーティの本は私の書棚にだいたい揃っている(はず)。引っ越しで少し捨てたけど、買い足しながら、順番に読んでいこう。
それから、映画や小説で「超絶イヤな奴だけど魅力的」なキャラに出会ったら、備忘録としてnoteに書き留めていく。その結果、世界のどこかにいる、自分と同じ感情の隠れ家を持っている人とつながれたらうれしい。
これが私の今年(2019年)の抱負。