【エッセイ】人類はまだ『それ』を言語化できない


『エモい』という言葉がここ数年とは括れないほど、長い間使われている。emotionalが語源で『感情が動かされた状態』という意味だが、今やセピア調の画像や、浜辺で数人が手を繋いでジャンプする写真と共に『エモいわwww』とツイートが上がったり、その反面ちょっと悪いことした瞬間にも『エモい』と言う言葉が使われる。
青春の1ページも武勇伝もかけがえのないものだとは思うが、それが果たして『エモい』なのだろうか。

私の認識している『エモい』は音楽と根づく。そもそも音楽では『エモ』というジャンルが存在する。有名どころだとELLEGARDENだろうか。『エモ』に分類されるバンドは、シンプルなコード進行に、美しいメロディ、そこに乗っかる英詩というのが、大まかな特徴だろう。しかし、そこで感情が動かされるかといえば、正直人による。

私はロックが好きだが、曲を聞いて1番泣いたのはヒップホップだし、ライブで1番泣いたのはアイドルだ。語源に当てはめると『感情が動かされる状態』なのだから、その瞬間が『エモい』なのだが、果たしてそれは人にとっての『エモい』なのだろうか。

そもそも、音楽に興味が無い人は音楽で泣くことは無い。景色や経験に涙する場面もまた『エモい』なのだろうが、私は逆に景色や、何かをなしとげて泣いた事が無い。同じ言葉で使用頻度が多いのに、人によって微妙に意味合いは違い、感情が動かされる深度も違い、『エモい』という言葉の重さも違う。
仮に私がここで『エモかったんだよ!』と書き起こしても、読者の皆様は『へー』で終わってしまう話だ。言葉にすればするほど『エモい』の本質から遠ざかるから、人間はまだ『エモい』を言語化できない。

私はこの感じをサウナブームの今感じている。

サウナブームが来て『整った!』と言う言葉を初めて聞いた方もいるだろう。
『整った』ってどういう状態?って聞かれたとして、私は上手く言葉にできるだろうか。

交感神経と副交感神経が入れ替わる過程でなんたら

と科学的な説明はできるが、それは『整う』の説明であり、『整った!』の説明ではない。だからこそ、『整うって何?ほんとに存在するの?』と言う人達が一定層いるのだと思う。

視界がぐるぐる回る。

視界がクリアになる。

地球の全てに感謝する。

多幸感を得る。

と『整った!』を言葉にすると人によってばらつきが出るのは、整う状態が人それぞれ違うのか、はたまた整う状態の認識自体が違うのか。『整った!』という言葉が市民権を得ているからこそ、その言葉が安売りされている気がする。

私が『整った!』と感じる時は

頭の中がじんじんして血が巡っているのを感じる。

体がポカポカするけど、皮膚は冷たさを感じ神経が敏感になる。

座っているおしりの内部がうねっている。

気がついたら口が空いてる。閉じられない。

こういったシグナルが出た時に『整ってる』と感じる。視界は回ったことは無い。

しかし、世間から見たらこれは『整った!』では無い可能性すらある。
だが、私の中の『整った!』はこれなのだ。

世間的に語られる、『整った!』の状態とは多少違う。
これでは様々な記事やテレビ等で『俺はテレビで言ってたみたいにならないから、整っていないのかも』と思っている人がいても、仕方がない。テレビや雑誌、ネットや動画などで『整った!』を追い求め、褒め称えるが故に、それにハマらない人が生まれていやしないだろうか。

『整った!』は恐らく人それぞれだ。
『整った!』という状態にならないかもしれない。
それでも、外気浴をして気持ちが良ければそれがあなたの『整った!』にしていいと思うのだ。

エモいと同じように、人類はまだ『整った!』を言語化できないのだから。

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