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冬眠をし忘れた熊は耳を奪わない(小笠原博毅)
ミシマショウジ詩集『茸の耳 鯨の耳』(トランジスター・プレス)の刊行を記念して、小笠原博毅さん(神戸大学国際文化学研究科教授)に批評エッセイを寄稿していただきました。カルチュラル・スタディーズを専門とする小笠原さんが、ミシマさんの詩を「自然回帰のロマンティシズムではなく、唯物論として」読み解く内容です。ご一読ください。
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冬至の夜に奪われたのが仮面だけでよかった。耳を取られはしなかったからだ。
でもそれは、やってきたのが熊男だったからで、もしも熊だったら耳を持っていかれていたかもしれない。琵琶弾きの芳一のように。なぜなら、熊は余計なお節介をするものだから、仮面の両脇から覗いている奇妙な部位は余計なものだと思い込んでしまうかもしれないから。ラ・フォンテーヌの熊はそんなやつだった。友だちのおじいさんにまとわりつく一匹のハエを追っ払おうとして、そこにあったレンガを投げてしまう熊。レンガはおじいさんに当たってしまい……。もしやって来たのが同じような熊だったなら、耳なんてものさえなければ、いちいち開いたり閉ざしたりする手間も省け、嫌なことを聞かずに済み、この人はもっと幸せなのにと、よかれと思ってちぎり取ってしまったかもしれない。
とはいえ、耳は目と違ってそれ自体で開いたり閉じたりはできない代物だ。耳を覆うその他の何かがないと音を遮断することはできない。耳をふさぐのは大抵の場合手であって、耳は耳をふさがない。耳自身に自在度が少ない分だけ、詩人は耳にいろんなことをさせることができる。音を聴くことだけが耳のすることではない。耳は誰かに与えたり与えられたり、飛んだり透明になったりする。食べたり嗅いだりもする。混沌を導いたり秩序を整えたりさえする。
茸の耳と鯨の耳は、詩人の耳だ。それは冬至の夜の少し前にわかる。「聞こえる声がふたつになったので」、詩人はお茶と椅子と物語をふたつ用意したからだ。少し引っかかる。熊男に仮面を持っていかれてしまった詩人は、もう二つの声を聞くことはできなくなってしまったんだろうかと。「そうじゃない、そうじゃない」という熊男の声は聞こえているので、一つの声ならば聞こえているはずだ。でも、それ以上はわからない。物語は一気に視覚の嵐、眼で見える風景ばかりになっていくから。
「聞こえる声」が一つなのか二つなのか、これは大きな問題だ。一つなのに二つに聞こえるなら、「お茶も椅子も物語も」ふたつ用意する必要はないだろうし、二つなのに一つに聞こえるなら、声があまりにも似ていて重なってしまっているか、やはり熊男はもう一つの声を奪っていったかだ。確かに熊男は「食卓に並べたものを全てさらって」行ってしまったが、それは「夢」のはず。もし夢ではなかったとしても、はたして声は食卓に並べられるだろうか。
並べられるような、つまり目で見ないとわからないような声を詩人の耳は拾えているのだという読み方に抗おうと思う。茸や鯨になることで詩人の耳が特別な力能を与えられていて、私たちには到底聞こえそうもない音をそのまま捕まえられるのだという発想を退けようと思う。なぜなら、音はそれ自体として平等であり、耳の力能もまた音を捕まえるという点において平等だからだ。絶対音感があるとか大地の鼓動を聞き取れるとかいう話ではない。音は耳を選ばない。翻って、音を勝手に選んでいるのは耳の力能ではなく、耳を傾ける技術なのだ。それは音を捕まえると同時に捕まえた音がこういうものだと知らせる、表現する、描き出せる、言葉を遣う二重の技術——詩——のことだ。この二重性に無頓着であることは、詩人に対して失礼で、詩に対してリスペクトを欠く。
樫の木に耳を当て、目を閉じている詩人の表情を見て、「聞こえているな」と思うのはやめたほうがいい。耳の聞く力能ばかりに囚われている人には、詩人は聞こえているふりをするだけかもしれないからだ。「樫の木がのど乾いてるって言ってるよ」などと言って。こんな感じでまるで詩は比喩のことだと言わんばかりに樫の木の声を聞いたふうなことを言うなら、その時の詩人も信じないほうがいい。樫の木はしゃべらないし、喉も渇かないからだ。樫の幹が乾燥して水分が足りず、水を吸い上げる様子もない乾いた音しか聞こえない様子を人間の言葉で人間(それも日本語話者)にわかりやすいよう表現し直しているだけであって、樫の木はまるで人間のように「喉がかわいた」とは言わない。言葉遣いだけに囚われている人には、そうやってわかりやすい比喩でも使っておけと言わんばかりに、この詩人は澄ました顔で声をかけるかもしれないからだ。
しかし、樫の木をまるで人間のように扱う―慈しもうが同化しようが―ことが良しとされてはいないか? 人間を相対化しているように見えて、それは実は逆説的な人間中心主義だ。何も変わっちゃいないのだ。ミシマショウジという詩人はそれを知っているのではないか。
この詩人はまえがきにあたる「序にかえて」のなかで、「酵母は資本を蓄積しない」と言っている。これは比喩でもなんでもない。人間はもはや疎外されていることすら忘れてしまうくらい疎外されているので、己の手で資本の蓄積すらできなくなっている。資本を蓄積するのは資本自体だ。ミシマショウジの詩にこの客観性が刻み込まれているとしたら、それはもうジャーナリズムだ。ジャーナリズムを刻み込む詩。詩的ジャーナリズムではない、あくまでも冷徹さが刻み込まれ、罠のように張り巡らされた詩たち。
もう一つの声の消え先はわからないままだ。ジキタリスの手袋は一組しか置かれていなかったのだから、やはりもう一つの声はどこかに消えてしまったんだろう。それでも熊男は耳を持って行かなかったので、詩人は自ら今度はたくさんの耳を持って海に行く羽目になった。その耳は海を飲み込み空に泳ぎ出で、空は透けて見え耳は虹色になる。まるでマグリットが絵にしそうな場面を作って、詩は閉じられる。熊男が余計なお節介をする熊ではなくて、本当によかった。はたして、耳はパンだったのだろうか。