【ためし読み】アサノタカオ随筆集『小さな声の島』
台湾への旅、沈黙への旅
二〇〇八年、妻の実家のある大阪から、旅ははじまった。
木造家屋の居間に忍びこむ冬の気配にからだを震わせながら、マッチを擦って一年ではじめて石油ストーブに火をいれた。青い炎の光にじっと見入りながら指先を温め、夜遅くまで、家族三人分の荷物を一個のスーツケースに詰めこもうと悪戦苦闘していた。風邪ぎみの妻と娘は、すでに二階で休んでいる。リュックサックを背負って、身一つでブラジルの南回帰線上を旅して汗を流していたかつてとちがい、日本で結婚してからの、幼い子連れの旅行だとどうしても荷物が大きくふくれあがってしまう。
翌朝、人工島のエアポートから晴れわたる青空へ飛び立ち、南にむかって海を越えた。三時間ぐらいのフライトだろうか。行き先は、台湾。大航海時代のポルトガル船の航海者が、「麗しの島(イーリャ・フォルモーザ)」と命名した東シナ海の大島。本当は、沖縄から波に揺られて船で渡りたかったのだが、原油価格高騰の影響で那覇と基隆を結ぶ外航船が運休してしまい、あきらめるしかなかった。
ポルトガルのインド派遣船隊長ペドロ・アルヴァレス・カブラルによる「ブラジル発見」五〇〇年にあたる二〇〇〇年の四月、ぼくは人類学の勉強をするために南米のサンパウロに留学することになり、一人暮らしをはじめた。
現地で日系社会の調査をおこなう研究機関に籍を置いて半年ほどたったころから、フィールドワークに出るようになった。そしてサンパウロ州とパラナ州北部に暮らす古い日本人移民の村を訪ねては、陽に焼けた皺深い一世のお年寄りたちから聞き書きをしてまわった。生まれた国や土地に安住することなく旅に生きるとはどういうことなのか、そこにどのような場所に対する感覚や感情が生まれるのかを、かれらの語りと人生からにじみだすものに学ぼうとしていた。
ぼくがサンパウロで生活しはじめたころ、「コロニア」という移民一世を中心とした日系ブラジル人の共同体は、確実に歴史の暮方にあった。かつてコーヒーなどの農場プランテーョンの契約労働者としてブラジルに渡り、町や職を転々として全土に散らばっていった初期移民の多くは、時の流れとともに、一人また一人と南米の土となって消えていった。
日本からブラジルへの移住開始から、そのときすでに九二年。二〇〇八年は、ちょうど移民一〇〇年の年だった。その数年前には、最初の移民船である笠戸丸で渡航した人のなかで唯一の生存者だった女性が、一〇〇歳で天寿をまっとうされている。およそ一五〇万人といわれる日系社会を支える中心世代は、すでに二世から三世に変わろうとしている。一世からみれば玄孫にあたる、ブラジル生まれの五世も誕生している時代だ。
二〇〇〇年から三年あまりのサンパウロ滞在中には、知り合いになった何人もの老移民との悲しい別れを経験しなければならなかった。あのときもっときちんと話を聞いておけばよかった、と後悔したのも一度や二度のことではない。ということは、戦前にブラジルへ渡航した古参の一世が、「コロニア語」と呼ばれる自分のことばで、つまり雑多な方言の訛りを残す日本語に、ポルトガル語の単語を交えた独特の移民ことばで、みずからの来し方を回想して語ることのできるほとんど最後の季節にぼくは立ち会ったことになる。
異国にあって「百年の孤独」を文字通り生きてきた人びと。前進してとどまることを知らない大きな歴史の流れのなかで、ふるさとから切り離されて生きてきた旅の人生の数知れない想いのかけらが、聞き手によってすくわれることなく時の闇にまぎれようとしていた。
失われてゆく無名の人びとの声を、この耳と手で記録しておかなければならない。今思うと少々気恥ずかしくなるそんな青臭い使命感に燃えて、ぼくは日本人移民のライフヒストリー調査に取り組んでいた。今回の台湾では、ブラジルで聞き書きの旅を続けながら考えたことを、文学研究者である友人からの誘いを受けて、彼女のつとめる大学のクラスと学会で話すことになっていた。
台湾とブラジルは、ともにポルトガル人航海者によって「発見」されることで、近代ヨーロッパの世界地図の一部として登録されたという共通点をもつ。そして台湾と日系ブラジル移民の世界のあいだにも、ちょっとした歴史的なつながりがある。最初の移民船である笠戸丸は、ブラジルから日本に帰還したあと、一九一〇年から台湾航路に就航することになったのだ。言うまでもなく、日本が帝国主義的な野望をもってアジア各地への侵略を進めていた時代の話だ。
けれどもブラジルから台湾へ向かうぼく自身の旅の意識のなかには、そうした歴史教科書的な知識とは別の、もっと特別で個人的な想いがあった。その麗しの島は、自分にとっては何よりもまず、父が生まれ育った島だったのだ。……