Road to Yakushima #5(宮脇慎太郎)
episode 5
この原稿を九州、五島列島に向かう客船の中で書いている
この原稿を九州、五島列島に向かう客船の中で書いている。半年前の屋久島への旅の意味は、時間が経つにつれ自分の内側で大きくなっていた。
2019年3月の終わり、数日後に新元号が発表される年度末、深夜便にもかかわらず博多港発のフェリー太古はほぼ満員だった。数年ぶりに訪れた博多の町は、世界中から多くの観光客が集まるアジアの巨大な交差点と化していた。道行く人々は一見日本人のように思えるが、話し言葉を聞くとほとんどが韓国人や中華系の人で、実際船の乗客にも外国人が多い。町中の看板は基本的に日中韓英四か国語表記で、大陸との近さを感じさせる。
都市がにぎわう様子は発展といえば発展だが、東京や大阪と同じくある一定の人口を超えると、人もモノもすべてが記号化され、風景の一部となることは否めない。このような世界から離れ、辺境へ向かう旅には、寂しさと表裏一体の快感があった。自分という存在の輪郭が一層明確になり、日常と切り離された時間の中で、何かが結晶化してゆく感覚……。
この日は一日曇りだったため、窓の外は空と海の判別もつかないほどの漆黒の闇が広がっている。島が小惑星帯のように点在する瀬戸内海とはまったく違う玄界灘の景色の中を、フェリー太古は西へと進んでゆく。2等寝室の雑魚寝の部屋は早々に消灯されてしまったため、僕は夜風にあたりにデッキへ出ることにした。乗り込む時に見上げた博多ポートタワーが、すでにはるか遠くに小さく見える。
階段を上がると一人の若者が、電話で話しながらラップを刻んでいた。どうやら相手は恋人らしく、夜の海に愛のリリックが消えてゆく。僕は彼に気づかれないように、足音を殺してそっとデッキの反対側へ回った。広大な外洋を眺めていると、太平洋と東シナ海のあいだに浮かぶ屋久島へと想いが飛んだ。
屋久島最終日、朝は晴れだった
屋久島最終日、朝は晴れだった。荷物をまとめた僕たちは、縁側から差し込む透明な光の中、明彦さん夫妻と一緒に分厚い屋久杉板のテーブルをかこんで最後の朝食をとっていた。短い旅に終わりの時が訪れようとしていたが、晴子さんは明るく声をかけてくれた。
「次は家族も連れて夏に来るといいわよ。一湊のビーチはすごく綺麗なんだから」
「そうですよね。子どもにも屋久島を見せてあげたいですし、次は絶対連れてきたいなあ」
白川山で実家のような居心地のよさも感じ始めているところだっただけに、何気ない会話も名残惜しい。再会を約束し、外で一枚写真を撮らせてもらった。
二人に別れを告げ、最後にアサノさんと集落を歩くことにした。川音を聞きながら、「愚角庵」や山尾三省の家のあたりまで行った。春美さんは出かけていて留守のようで、いつも開いていた入り口の扉が固く閉まっていた。改めて見ると主不在の建物は苔むし、屋久島の生命力溢れる自然に人の営みがあっという間に覆われてゆくように見えた。ふとアサノさんが漏らす。
「サルスベリの木が見たかったなあ」
あまりにも周囲の植物が育ち過ぎていて、ついに最終日まで見つけることはできなかった。これは正確にはシマサルスベリといって、種子島と屋久島が自生の北限。通常のサルスベリは8月頃に多くは赤い花を咲かせるが、この品種は六月の梅雨時期に白い花を付ける。その木は、三省さんの本にしばしば登場するものだった。
三省さんにとってその木とは庭のサルスベリだった。そこに、彼は魂を還して旅立っていったのだろうか。僕も目を凝らして家のそばや庭を注意深く見てみたが、それっぽい木は道からは見えない。かといって家の裏手に回り込むのも、生い茂る植物に阻まれてほぼ不可能。主不在の家の周りをしばらくうろうろし、傍から見たらさぞかし怪しい二人組だっただろう。アサノさんが残念そうに呟いた。
「これはもうちょっとわからないな」
「そうですね。春美さんだけじゃこの草刈りだけでも大変でしょうし……」
僕たちは再訪を誓いつつ、車に乗り込み山を下ることにした。
その瞬間、白装束の編み笠をかぶった老人とすれ違った。あまりに急だったし、車を発車させた直後だったので停まることもできなかったが、一瞬目が合った。刺すような鋭い眼光。徒歩でこの長い山道を上がってきたのだろうか? 出で立ちもお遍路さんにそっくりで、地元の四国だと見慣れているがここ屋久島では異質な雰囲気。しかしすぐに車はカーブを曲がり、この老人の姿は見えなくなってしまった……。今思い返しても集落との印象的な別れ方だった気がする。
最初はものすごく遠く感じた白川山の山道も、何往復かした今ではすっかり馴染みの道になっていた。アサノさんは慣れた手つきで軽妙にハンドルを切り、来た時の倍くらいのスピードで海へと下ってゆく。
三省さんの息子たちはこの道を走ってトレーニングをしていたと、本に書いてあるのを読んだことがあった。最初はそれがまったく信じられないほどの長い山道だったが、ある程度通り慣れた今では、もしそういう風景に出くわしても、別段おかしくはないな、という心境になっていた。初めは野生の地と思えた山の中には、人の手が入った跡もちらほらとあった。「また来てね」と書かれたトトロの看板、そしてスノーマンをもじった「SLOW MAN」の看板、それらを越えると白川山の集落を出たという気持ちに。
「伝説の集落」というのは僕の勝手な思い込み
伝説のヒッピーコミューンというのは僕の勝手な思い込みで、当たり前だけどそこも人々が生活するごく普通の集落だった。愛し、泣き、笑い、時には怒りながらも、家族や友人と日常を分かち合う場所だった。
かつて三省さんなど「部族」のメンバーたちによるコミューン運動はアナーキーなことと受け取られたが(実際、島では新興宗教と思っていた人たちもいたと聞く)、かれらがその人生を賭けて歴史に印した行動は、戦後の日本人が残した思想の中で数少ない、色褪せぬ輝きを今も保ち続けている。高度経済成長やバブル景気などで浮かれる同時代の日本を尻目に、あくまで三省さんは土と家族に軸足を置き、屋久島から自分の信じるメッセージを発信し続けた。
それまでの僕は、彼の著作で繰り返し語られる生きることの寂しさも、生活の苦しさや貧しさも、読書体験でしか知らなかった。その言葉はどういう場所で、どういう切実さを持って生まれたものだったのか? 現地の空気を肌で感じたことで、実感をもって理解できた気がした。
車が屋久島を周回する県道78号線に出ると、一気に空が開け、目の前に真っ青な海が広がった。不思議と気持ちも広く、晴れやかになる。人の心は環境や風景に簡単に影響されるものなのだ。そのまま宮之浦を通り過ぎ、船が出港する安房の港へと向かった。
今回の短い旅では、印象的な出会いが他にもあった
今回の短い旅では、印象的な出会いが他にもあった。
「三省忌」で会った写真家の山下大明さんは、屋久島を中心に自然の中に分け入り、次々と写真集を出版している。僕は何冊か山下さんの著作を見ており、写真の静けさに圧倒されていたが、実際に出会った本人も想像していた通りの物静かな方。話によるとマムシやヤマビルなどもたくさんいる凶暴な屋久島の山に、時には数か月もテントを持って泊まり込みながら撮影を続けるという。
そうして撮られた屋久島の自然の風景は神秘そのもので、その土地に住まないと撮れないネイチャーフォトグラフの真髄を見る気がする。鳥や虫たちが飛び交う屋久島の森や雪景色などは、一朝一夕では拝むことすらできないだろう。そこからさらに山下さんは探求の歩を進め、発光キノコや蛍などを被写体に、より崇高な島のイメージを追求してもいる。
山下さんの屋久島移住の手助けしたのが、ゲストハウス「晴耕雨読」を営む長井三郎さんだ。アサノさんと訪ねると長井さんは快く中に招き入れ、屋久島の高速艇の料金が一時期は安くなっていた話や、島が世界遺産になった経緯などを、時折冗談を織り交ぜながら話してくれた。どの話題も興味深く、聞き飽きることがない。特に屋久杉を始めとする、島の森をどう保護していくべきかを熱っぽく語る様子は印象的で、ここの自然は想いを持った人の手により守られてきたのだと知った。
長井さんは1951年生まれで、早稲田大学に進学した後、1975年に屋久島に帰島。以後屋久島を守る会の運動に参加するなど、さまざまな活動をしてきた。2014年には『屋久島発、晴耕雨読』(野草社)という著作も出版している。
ゲストハウスで話をしていると、屋久島の山をトレッキングして戻ってきたらしい若者が次々と席につき、話題に加わってくる。東京や九州など全国各地から旅してきたかれらの話を聞きながら、長井さんは次はあそこに行ったらいいとか、このシーズンがお勧めだとか親切に教えてあげていた。
書斎のような壁一面の本棚を背景にそれらを語る姿は、慕われる島の兄貴分的貫禄十分。これは決して飾らない長井さんのキャラクターから来ているのだろう。リピーター客が多いというのも頷ける気がした。その地域に長井さんのような水先案内人がいるかどうかは、ローカルが輝くためにすごく重要なことだと思う。旅人の視点からいえば、そういう人に出会えるかどうかで、その土地の印象はまったく変わってしまう。
長井さんは以前『生命の島』という、ローカルメディアの先駆けとなる雑誌にも寄稿していた。内容を見ると、安房森林軌道(鉄道)の図面やウミガメやヤクザルなど島の自然の解説から、えびす神の考察といった民俗学の記事や観光と島の名産品の紹介、さらには独身男女のお見合いコーナーまでと幅広い内容。屋久島発の地域情報誌として定期購読の読者を中心に支持され、島内の企業が50社ほど協賛。一時は発行部数5000部を誇っていたという。雑誌で紹介されている島の物産を中心にした商品を通信販売で購入することもできたり、今見てもまったく古びていない企画が多く、まさに屋久島の『ホール・アース・カタログ』。この雑誌の精神を受け継ぎ、現在では『屋久島ヒトメクリ』という冊子が「カフェ・ヒトメクリ」から定期的に発行されるなど、長井さんたちが掲げた文化活動の芽は途絶えていない。
それら旺盛な出版活動を支えているのが、「書泉フローラ」という宮之浦の町の新刊書店だ。明彦さんに聞いた話では、屋久島といえども、三省さんの数多くの著作を並べて販売してくれる店はなかなかないという。
屋久島を周回する幹線道路沿い、しかも宮之浦のど真ん中という一等地にある「書泉フローラ」の外には、小学生向けの雑誌が並び、店に入ると『ジャンプ』や『マガジン』などの漫画週刊誌がまず目につく。よくある地方の新刊書店といった雰囲気かと思いきや、店内の奥には三省さんの著作や山下さんの写真集などを中心に、屋久島関連の出版物を面出しで並べているスペースがあった。時間をかけて作られたであろう圧倒的な棚の迫力は、この書店が一番伝えたいのはこのコーナーの本なのだという強い意志を感じた(「書泉フローラ」は2019年7月に閉店した)。
出会った人々は皆、気負うことなく自然体で島を愛し、自分たちがなすべきことを追究していた
出会った人々は皆、気負うことなく自然体で島を愛し、自分たちがなすべきことを追究していた。そしてかれらを繋いでいたのが、山尾三省という存在だった。詩人のことばは肉体が滅びてからもなお、より強くその引力を増しながらさまざまな人を引き寄せている。時代は一周し、当時アナーキーなことと思われた、三省さんらのコミューン的な生活と家族に軸足を置く生き方に同調する若者は僕のまわりにも多いし、これからも増えていくはずだ。
残された三省さんの詩や散文を通じて、忘れ去られていたかもしれない精神は、屋久島という固有の場所と時間を飛び越え、世界をあまねく流れてゆく。意識的であれ無意識的であれ、詩人の精神を受け継ぐものは、それぞれの時代にほかならぬ「自分の樹」を見つけていくことになるだろう。白川山で三省さんのサルスベリが見つからなかったことにも、意味があるように思えた。
安房の港へ到着したのは船が出発するぎりぎりの時間。係員に急かされ慌ただしく飛び乗ると、高速艇は桟橋から出港した。屋久島を窓から見ると、今まさに雨雲に包まれスコールの中に消えていくところだった。みるみるうちに島影は雲と一体となり、もうそこに島があるのかどうかもわからない。あまりにもあっけない、島との別れだった——
フェリー太古の客室で、別の船で渡った屋久島への旅を思いながらいつの間にか眠りに落ちていた。目覚めると、窓の外にはまるで見慣れた瀬戸内海に帰ってきたかのような景色が広がっている。そう、目指す五島列島もまた多島海の海域だった。こんな単純なことも、実際にそこへ行かないと気づけない。まだまだ世界は広いし、だから旅は続く。魂を還す「自分の樹」を見つけるまで。
*本連載をまとめた宮脇慎太郎の旅行記『流れゆくもの-屋久島、ゴア』をサウダージ・ブックスより刊行しました。続編「Road to Goa」や「あとがき」は本書でお読みください。
著者プロフィール
宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう)
写真家。瀬戸内国際芸術祭公式カメラマン、専門学校穴吹デザインカレッジ講師。1981年、香川県高松市生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返し、日本列島では聖地と呼ばれる様々な場所を巡礼。2009年、東京から高松に活動の拠点を移す。2020年、香川県文化芸術新人賞を受賞。著書に写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』、旅行記『流れゆくもの–屋久島、ゴア』(以上、サウダージ・ブックス)ほか。https://www.shintaromiyawaki.com/