Road to Yakushima #3(宮脇慎太郎)
episode 3
寝室は、まだ真っ暗だった
寝室は、まだ真っ暗だった。どうやら夢を見ていたようで、混濁した意識で見慣れない天井を見てもすぐには自分がどこにいるのかわからない。
隣で寝ていたはずのアサノさんは先に起きたようで姿が見えない。時計を見ると午前8時を回っていて、暗いのは窓にぶ厚い遮光カーテンがかかっているからだった。頭が少し重い。確か手塚さんたちが帰ったのは深夜だったように思う。調子に乗って焼酎を飲み過ぎたのがいけなかったかな……。
寝室から廊下に出ると、縁側に朝日が差し込んでいた。畳に落ちた鋭い斜光の先を目で追うと、「天上天下唯我独尊」のポーズをとったお釈迦様の像などが置かれた床の間があった。「やあ、よく眠れましたかな?」。声をかけられて振り向くと、テーブルに明彦さんとアサノさんの姿。すでに晴子さんが朝食を並べ始めていた。
食事をしながら、本日の「三省忌」の流れを軽くおさらいする。まず白川山の集会所「やまびこ館」で法要をおこない、ついで三省さんの詩を能楽師たちが謡うということだった。夜の宴会明けの食卓はなごやかな雰囲気。一緒にお酒を飲んだり同じ屋根の下で寝ることで、心の距離が一気に縮まる。
法要までは少し時間があるので、アサノさんと集会所までの道をのんびり歩きながらあたりを散策することに。外に出るといつの間にか曇ってきた様子で、ずいぶん暗くなってきた。屋久島は天気の移り変わりが激しい。昨日、チカヨちゃんが「天気予報はまったく役に立たないよ。降る時は降る、降らない時は降らない」と言っていたのを思い出した。
明彦さんの家から少し歩くと山尾三省の家と、「愚角庵」という書斎小屋があった。町内会のお知らせを貼る掲示版もあり、今もこの土地が一つの地区として機能していることがわかる。
掲示版のあるところで道を曲がると橋があった
掲示版のあるところで道を曲がると橋があった。「ああ、ここか……」とアサノさんが身を乗り出して声を上げる。「山尾家はここでよく泳いでいたみたいで、三省さんの詩にも出てくるんだよね。どこかで時間を見つけて水浴びしてみたいな」とうれしそうに川面を眺めている。巨大な丸い岩石がごろごろと転がっている清流。水はどこまでも透明で川底まではっきり見え、岩にも水苔がついていない。山尾家以外にも、きっとたくさんの人がここで泳いだのだろう。
橋を渡ると道はくねくねと折れ曲がる上り坂になり、「三省忌」の会場まで続く。想像していた集落の姿と違い、住居が一か所に密集しているわけではなく、谷沿いに一定の距離をあけながら家々が点在している感じ。移住者たちのセルフビルドなのだろうか、それぞれに工夫を凝らされた建造物はスタイルもさまざまで、木造のものやレンガを積み上げたもの、建築家の作品かと見まがうような立派な石造りのものもあった。家と家のほどよい距離感から、それぞれの家主が助け合いながらも、もたれかかることなく自立している印象を受けた。
珊瑚のかけらが埋め込まれた玄関アプローチ、分厚い鉄の扉を持つ立派なピザ窯、子ども用の手作りの遊具。ミツバチの巣箱や、平飼いにされたニワトリがいる小さな養鶏場などもあった。しかしこの集落でかつて希望を持って作られたのであろう家屋などの人工物の一部は、ゆっくりと自然に還りつつあるようにも見えた。
亜熱帯植物の勢いは凄まじく、南方の自然はまるで意志ある兵士のように淡々とあらゆるものを飲み込んでいく。そういえば明彦さんも、外出する時にはかならず除湿器の電源を入れ、「ここの生活はカビとの闘いだよ」と苦笑していた。山間の地なので日照時間が短く、流れる川や頻繁に降る雨による湿気はそうとうなものなのだろう。
それにしてもこれだけ歩いていても、誰にも会わないとは……。伝説のヒッピーコミューン、アニミズムを信じる詩人の土地。知らず知らずのうちに僕が勝手なイメージを膨らませていたのだろうか。そもそも一体何を期待していたのか。四国や本州の野外フェスで会うような、仙人のような風貌の老人たちや、ヘンプの服に身を包んだ若い人たち? あるいは、東南アジアの村のように、裸でにぎやかに走り回る子どもたちの姿?
「さすがにちょっと寂しいですね」とアサノさんに言うと、「そうだね、でも……」。瞬間、谷間に光が差し込んできた。雲が途切れたのだろう。緑の景色がいっせいに輝き出す。
「たぶん昔はもっといろんな人が、ここにやってきたんじゃないかな。住人も旅人も、みんな本気だったと思う」
「青春だったってことですかね」
「単純に楽しかったんだと思うよ。80年代頃の当時は子どもたちもたくさんいて、きっとにぎやかだっただろうし」
そう、三省さんにも9人の子どもがいたし、集落全体だとそうとうな数の児童がいたはずだ。しかし昨夜の宴会で明彦さんに聞いたところによると、かれらの大半は島外に出てしまったという。親世代が理想とするライフスタイルを、子どもたちがそのまま踏襲するとは限らない。むしろその逆のパターンがほとんどだろう。田舎暮らしの黄金時代とは、子どもが成人するまでなのかもしれない、とふと思った。
「やまびこ館」の中に入ると正面に仏壇が組まれ……
「やまびこ館」の中に入ると正面に仏壇が組まれ、三省さんの妻の春美さんがせっせと法要の準備をしている。玄関の壁には、古いモノクロームの集合写真がかけられていた。農作業や自然相手の労働で鍛えられた体つき、ほどよく日焼けした健康的な肌、老人から若者まで皆髭面でにこやかに微笑み、まっすぐな目でこちらを見据えている。新天地で生活をゼロから打ち立て、仲間たちと共に夢を見ることへの深い喜びが感じられた。日本、いや世界中のカウンターカルチャーのネットワークと繋がっている白川山は、かれらにとって辺境ではなくこの宇宙の中心だったのだろう。
三省さんがナナオサカキらと立ち上げた「部族」周辺の人々は白川山だけではなく、諏訪之瀬島の「バンヤン・アシュラム」、奄美大島の「無我利(むがり)道場」、長野の「雷赤鴉(かみなりあかがらす)族」、東京・国分寺の「エメラルド色のそよ風族」などのコミューンを形成した。全盛期には日本全土に数十ものヒッピーコミューンがあったといわれているが、その大半は1970年代中頃までには消えていった。
しかし21世紀に突入してもすべてがなくなったわけではない。そして各地のローカルをうろうろしている僕の実感だと、かつてほどの思想的な苛烈さはないものの、コミューン的なライフスタイルを選ぶ人はむしろ各地に増えつつあると感じる。かれらは自分たちのことをヒッピーとは思っていないだろうが、もっと自由に、もっと自然に「部族」的な生き方を実践していると思う。
そういう意味では、三省さんたちは間違いなく闘いに勝ったのだ。かれらが人生を賭して世界に問いかけた、文明に背を向けて自然に寄り添う生き方に共鳴するものは、今後もいなくなることはないだろう。
法要の前に山尾三省記念会の総会をおこなうとのことだったので、そのあいだにアサノさんと僕は三省さんのお墓を訪ねることにした。「やまびこ館」の横から沢沿いの山道を五分ほど上がると、見晴らしのよい斜面に二つのお墓があるのを見つけた。墓石の一つには「宇宙清浄」、もう一つには「南無不可思議光佛」の文字が刻まれ、それぞれの前に花が供えられている。
三省さんのお墓は後者。後から聞いた話だが、「宇宙清浄」のほうは三省さんと共に最初期に入植した仲間のお墓だそう。死してなお、その生き様を強烈に伝える墓石の存在感は圧倒的で、僕はしばらくそこから動けなかった。そのすぐ横には巨大なコブを持つ異形の樹が、まるで墓守のように立っている。お墓のすぐ前には、手塚さんの息子でアーティストの太加丸さんが建てたという小屋もあった。白川山出身の若者の活動を、二人のお墓が静かに見守っているようでもある。
「やまびこ館」に戻ると30人ほどの人が集まっており、いよいよ「三省忌」が始まった。白川山に来る前は伝説の「部族」の集会ということで、何かヒッピー系・ニューエイジ系のイベントみたいなものを想像していたかもしれない。しかし昨晩の宴会あたりから、ここはそういうところではなく、完全に地に足の着いた暮らしの場なのだと感じ始めていた。
仏式の法要は伝統的なもので、まずはお坊さんによる読経が始まり、その後説法があった。そして観世流の能楽師による三省さんの詩の奉納が始まった。死者の世界へと呼びかける謡の響きは、不思議とこの生命力溢れる島でも違和感がない。ハーメルンの笛吹きのように屋外へ出て歩きながら謡う能楽師に続き、ぞろぞろと皆で集落の道を下っていく。無事に奉納も終了し、あっという間に「三省忌」は終了。会が終わると集まっていた人たちも思い思いに帰ってしまった。寄せては返す波のように、白川山の集落に静寂の時間が戻る。
ぽつんと残された僕とアサノさんは、春美さんから昼ご飯に招待された
ぽつんと残された僕とアサノさんは、春美さんから昼ご飯に招待された。東京から帰省していた娘さんと、三省さんの前妻の息子で唯一島に住んでいるM君たちと食卓を囲む。作ってくれたのは「冷や汁」というご飯にだしのきいた冷たい味噌汁をかけたもの。九州南部でよく食べられているそうで、初めて食したのだがさっぱりした味わいでおいしい。
食事をしながら、M君が集落から雨の日も風の日もスクーターで高校へ通った話や、それが壊れた時に三省さんが町のバイク屋で中古品を探して買ってくれたことなどを思い出として話してくれた。まるで昨日のことのような話しぶりに、詩人の父親としての顔や、この家庭の中に流れていた生活の時間をうかがい知ることができた。
アサノさんは春美さんと出版の話をするとのことだったので、僕は道路の向かいにある「愚角庵」へ行くことにした。そこは三省さんの書斎小屋で、執筆していた当時のまま空間が保存されているという。いよいよ詩人の創作の現場と対面する時が来た。意を決して木の扉を開け、一人で室内に入る。
鹿の頭骨やインドの聖者ラマナ・マハルシの肖像画の掲げられた本棚が、まず目に飛び込んできた。「すごい!」。思わず声が出る。
靴を脱いで土間から室内に上がると小さな囲炉裏の間、その奥に八畳ほどの部屋がある。部屋の右手の窓辺に執筆用の座卓があり、三省さんが生前に愛用していたであろうタバコや虫眼鏡、文房具や鞄などが並べられていた。机の上には来訪者が感想などを書き記すノートが置かれており、見てみると想像以上に多くの人が全国各地からここに来ているようだった。
そして左手の奥には、法華経を熱心に信仰していたという三省さんらしい大きな祭壇が。それはさながら仏教を超えたアニミズムの世界を表現する立体の曼荼羅のようで、観世音菩薩を中心としながらチベット密教の法具や貝殻、縄文土器や石などが配置されている。
室内の壁という壁には本棚が据えられ、自身の著作をはじめ古今東西の宗教や哲学、文学の本がぎっしりと並ぶ。まさに祈り、詩作と思索をするためだけの空間だ。主は失ったが、三省さん自身によって世界中から集められたものたちに囲まれていると、まるで彼の頭脳の中に入り込んだかのような錯覚に陥った。窓の外は緑が広がり、すぐそばを川が流れているため水の音だけが室内に鳴り響いている。
足元を見ると畳の上に蟻の行列が這っていた。湿気などで書物や建物の傷みは非常に激しい。家族や関係者だけでこの空間を維持するのは大変な苦労だと思う。今なお各地から巡礼のように人々が訪れるこの場所は、これからの時代にこそ価値を持つと思う。なんとか地域社会の力で保存されてほしいと切に願う。
三省さんは屋久島で、自分の信念を証明するかのように人生を生き切った。春美さんや明彦さんがここで「三省忌」を続けるのも、僕やアサノさんがここに来たことも、その精神の重力がいまだ失われていないことの表れだと思う。三省さんの肉体は滅んだが魂はまだ生きている。今も、夢は残されている。彼の詩が、そのヴィジョンを確実に次の世代へと伝えている。
夕方、僕たちは宮之浦の町へ降り、三省さんの親友でゲストハウス「晴耕雨読」の主人である長井三郎さんに……
夕方、僕たちは宮之浦の町へ降り、三省さんの親友でゲストハウス「晴耕雨読」の主人である長井三郎さんに勧めてもらったレストラン「パノラマ」へ。トビウオの刺身や屋久島のクラフトビールなど、島の恵みを心ゆくまで堪能した。人気店のようで、いつの間にか満席に。日本料理の店や寿司屋で修行を積んだという店主やスタッフは皆若く、屋久島のこれからを担う者たちが着実に育っているように感じた。
店の外で順番を待つお客さんの行列ができてきたので早々に食事を済ませ、宵闇が迫る宮之浦の川沿いを歩いた。橋には提灯が連なり、まるであの世へと続く道のようだ。さて、今夜はどんな夢を見るのだろう。黄昏時、最後の光が消えるまで、屋久島の空に高々と浮かぶ入道雲をいつまでも見つめた。
*本連載をまとめた宮脇慎太郎の旅行記『流れゆくもの-屋久島、ゴア』をサウダージ・ブックスより刊行しました。続編「Road to Goa」や「あとがき」は本書でお読みください。
著者プロフィール
宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう)
写真家。瀬戸内国際芸術祭公式カメラマン、専門学校穴吹デザインカレッジ講師。1981年、香川県高松市生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、六本木スタジオなどを経て独立。大学在学時より国内外への旅を繰り返し、日本列島では聖地と呼ばれる様々な場所を巡礼。2009年、東京から高松に活動の拠点を移す。2020年、香川県文化芸術新人賞を受賞。著書に写真集『霧の子供たち』『UWAKAI』、旅行記『流れゆくもの–屋久島、ゴア』(以上、サウダージ・ブックス)ほか。https://www.shintaromiyawaki.com/