大都会で自転車を漕ぎながら映画と研究について再考する秋の夕暮れ
首都高の下を自転車で駆ける
秋。ようやく冬に向かう冷たい風が吹き出し、真昼間でも「あれ、もう夕方かな。」と思うくらいの柔らかな陽の差し方で、季節の移ろいを感じる日々だ。
都内の大学院に通う私は、週に1日だけ、2つのキャンパスを行き来している。基本的には文京区のキャンパスがメインだが、興味のある文化人類学の授業が目黒区にあるキャンパスで開講されているので、午前のゼミを終えた後、そちらに向かう。
キャンパス間は基本的にはみんな電車で移動することが多いのだが、目黒区キャンパスに行くには渋谷駅で乗り換える必要がある。人が多すぎてそれだけで疲弊してしまう。
毎回観光客をかき分け、でかいリュックを背負って移動するのはかなりのストレスだ。
せっかく涼しくなってきたし天気もいいので、東京に出てきてから買った、まあまあいいシティスポーツバイクで行ってみることにした。
片道1時間。悪くない。
東京は坂道が多く、特に東西を横断する場合はこのアップダウン意味あるのか?と思うくらい、登っては下り、かと思えばまた登る。
スピッツとウルフルズを聴きながら秋風を感じるには、そんな坂道も演出の一つと捉えることもでき、憎くはない。
新宿区、渋谷区の道路表示。
目的地まであと15分ほどになり、「初台」という交差点に差し掛かった。そこで私は、異様な光景に、圧倒された。
初台の交差点の真上には、首都高速道路の西新宿JCTがある。その真下を自転車で通る時、大袈裟に言えば、現代社会の大都会をめぐるスピード感とのギャップを感じさせられたのだ。
ふと信号待ちの際に看板に目をやると、「甲州街道」の文字が見えた。
首都高から映画の舞台を想起する
かつて、映画『花束みたいな恋をした』にとてつもない魅力を感じ、当時付き合っていた恋人とロケ地巡りを計画したことがある。その際にロケ地をくまなく調べたのだが、甲州街道もその一つだった。結局その時は、1日ではとても回りきれず、多摩川や調布付近のみを周遊した。
この映画はかれこれ3年前に公開されたもので、当時は話題になり、多くの考察がされていた。私の姉が大好きな「ゆとたわ」というポッドキャストを始め、様々なブログやSNSで意見が交わされていた。
甲州街道は、主人公の麦と絹が出会った日に、明大前から調布にあるパルコまでをビール片手に歩いていた道だ。
その場面では、繰り広げられる会話劇が主人公二人の視点から描かれているのが印象的だった。
しかし、この初台の交差点で西新宿JCTを見上げ、首都高に沿って必死に自転車を漕ぐ私が感じた違和感、というか、圧倒された気持ちで、ハッと気づくことがあった。
そう、麦と絹の、時代の効率中心主義や資本主義的思考、手っ取り早い大衆消費文化への対抗や馴染めなさが、この歩くシーンから見事に描き出されていたのだ。
車がわざわざ止まる必要がなく、素早く移動できる道路と、「歩く」という最も時間を有する移動手段。
麦と絹は、時間がかかっても、歩く、という選択をとった。(単に、大学生なのでお金がなかっただけという可能性も大いにある。)
厳密に言えば、麦と絹の夜明け前の甲州街道には首都高は走っていない。地図で見たかぎり、国道20号線である。
しかし、彼らがそこで歩いているシーンには、必ず幹線道路とタクシーが映っていることに着目したい。
タクシーは、このシーン以外でも、彼らのサブカルチャー的な特徴と対比的に使われている。
麦と絹の出会いは、明大前で終電を逃したことから始まるのだが、そこですぐに二人きりでは会わず、同じく終電を逃した見知らぬ人同士4人でバーに行く。そこでも、麦と絹のサブカル的な志向とは対照的に、麦と絹以外の「社会人」二人は、大衆的で「陳腐な」(と、麦と絹が考えているだろう)好みで盛り上がる。その後、その「社会人」たちはタクシーでラブホテルと思しき場所に向かう。
ここで、「社会人」に括弧をつけているのには、この映画で「社会人」が重要なキーワードであり、それが麦と絹の生き様に大きく関わってくるからだ。
この映画の主題はラブストーリーであるが、おそらく坂本裕二脚本が伝えたいのは、ラブストーリーの変遷の背景にある、現代の生きづらさだと考える。
坂本裕二は、少数派(であると考えている人)のためのストーリーを描きたい、と自ら語っている。(詳しくは、神戸大学の先輩の卒業論文「坂元裕二脚本における日常性の演出 : テレビドラマ『カルテット』(2017 年)の食事シーン分析」を見ていただきたい。)
大学を卒業してもフリーターとして二人の時間を楽しむ麦と絹は、親に説得されて就職活動を始めるが、なかなかうまくいかない。
麦と絹は声を揃えて言う。
映画全体のラブストーリーの背景には、現代の目まぐるしい変化やスピード、感性や個性を押し殺しても周りの評価を得ること、資本主義社会での「勝ち残り」が集団や個人の中心的目標となっていく全体的な傾向と、
遠回りでもいいから自分の感性に正直になることの美しさと儚さ、そしてそれを抱いたまま現代社会で「真っ当な」と評価される人生を歩む難しさが、二つを表象する対照的なモノを通して、見事に描き出されている。
おまけ
この批評から得た今後の研究生活への知見
最後に、この映画批評を通して、私が今後の研究生活について考えたことをつらつらと書く。ただただ、自分語りであるし、備忘録のようなものである。
この映画批評は、私が自転車で片道1時間かかる目黒区キャンパスを目指し、実際に圧巻の灰色コンクリートの首都高の下を通り、その圧倒的な存在感に違和感を覚えなければ、着目しなかったであろう点から、掘り下げて書かれている。
※すでに述べた点に気付いた人や批判するべき点もあるかもしれないが、その場合は多大な尊敬をするとともに、温かく見守っていただくことをお願いしたい。意見はぜひ伺いたい。
映画批評や、表象文化論的なエッセイや論文は数多く存在する。
それらは、先行研究や社会的文脈を非常に緻密に整理し、考慮して書かれたものだろう。
私は今、社会学を専門に研究しているのだが、社会学の基礎知識や、授業の議論の内容には、どうしても、どこか遠い雲の上にいるような感じで、感情を抑えて向き合わなければいけない気がしてならないのだ。
それは、私にとってはとても辛い。
私は、(私の嫌いな)16類型に当てはめると、完全にF(感情型)の一部である。
もちろん、私たちが生きている社会的世界を説明する広範な理論をうちたてることはとても意義があることだし、私の所属する研究室は、日本において伝統的にその大きな役割を担ってきた。その一員としていることに、少なからず誇りを持っている。
しかし、私が研究を進める上で充実感を覚えるのは、今回首都高の下で感じたような、私自身の身体感覚の「ズレ」から出発し、そこから対象となる人々の内面やそこからみえる世界と、同時にに私の生きる生活世界について考える、ということだ。
そしてもっと、人々との関わりと、それによって変化する自分自身の内面を重視したい。
私は、私の感情が大好きだし、大切に抱きしめながら生きていきたい。
それに気づくのに、入学してから半年以上かかった。
人類学的なアプローチでは、研究者の「内在性」を起点に認識し、自分と対象社会との関係性から社会を捉え直す、と、文化人類学者の前川啓治はいう。
当たり前だが、学問には、様々なアプローチがある。
しかし私は、ある学問で多く扱われているテーマ、という理由でその学問に興味を持ってきたし、その道を進んできた。つまり、具体的な対象をみて判断してきたということだ。それも間違った判断の仕方ではないとは思う。
しかし今回、実際に「フィールド」での「ズレ」を味わい、それがこのように執筆に向けたエネルギーになっていることを考えると、扱う対象だけでなく、より抽象度を上げて学問自体の姿勢というものを考えていく必要があると感じた。
参考文献
板橋今日子, 2023, 「坂元裕二脚本における日常性の演出 : テレビドラマ『カルテット』(2017 年)の食事シーン分析」『日本文化論年報』(神戸大学大学院国際文化学研究科日本学コース卒業論文), 26, 1-47.
前川啓治ほか, 2018『21世紀の文化人類学—世界の新しい捉え方』新曜社.